かきかたの本

書き方の練習

ドーヴァーの夜

ガウェイン卿が死んだ。

ドーヴァーの戦いは勝利に終わったが、その夜、宴が開かれることはなかった。進駐軍のキャンプでは、兵士たちも何かを察してか、皆一様に暗い表情でそれぞれに黙って火を囲んでいた。

その知らせを聞いたのは、ベディヴィア卿からだった。どうやら、円卓の騎士たちへはアーサー王より話があったようだ。先の戦いで傷を負いながらも、兵士たちの指揮を落とすまいとドーヴァーへ馳せ参じたガウェイン卿は、この戦いでも獅子奮迅の活躍を見せたという。しかし、百戦錬磨の勇士であっても、その身に負った傷は一瞬の隙を生む。そして、騎士の戦いにおいて、その隙は死神を誘う扉となる。

三本の槍を腹に受け、それでもなお、獣の如く叫びを上げ、数十の敵を薙ぎ払った

折った枝を火へ焚べながら、ベディヴィア卿は言う。

大した男だ、まったく、武功に関しては彼には敵わない

ベディヴィア卿とガウェイン卿は、共に古くからアーサー王に使える古参の騎士であった。私も、ベディヴィア卿に仕える身として、ガウェイン卿とは何度も酒を飲み交わした。彼の死は、今後の行軍において、果ては、アーサー王と円卓の騎士の在り方において、大きな影響を及ぼすだろう。彼はそれほどの騎士であった。

強く、勇敢で、忠義に厚いお方でありました

ああ、そして、女好きで、酒好きで、どうしようもないバカだった

ベディヴィア卿は笑いながら言い、三杯の銀のカップへ酒を注ぐ。その一杯を私に、そしてもう一杯を彼の隣、いつもガウェイン卿が座っていた位置に置く。

勇敢な騎士の魂へ

彼はそう言って、夜空へ杯を掲げた。同様に、私も杯を掲げ、そして苦いブドウ酒を一気に飲み干した。

なあ、死んだ英雄の魂は、いったい何処へ向かうんだろうな

ベディヴィア卿は、夜空へ目を向けたまま言う。

彼の望んだ、そして、私たちの望むアーサー王の作る世。それを、彼は見ることが出来るのか

私の故郷では、死者の肉体は土へ、その魂は空へ還ると伝えられておりました。そして、その空の先から我々を見守っている、と

 そうか、では、彼に見せてやらねばな

ベディヴィア卿は言って立ち上がると、腰に備えていた剣を抜き、俺の前に突き立てた。

ラティーンエクスカリバーの姉妹剣であり、ガウェイン卿の使った剣。これからは、お前が使え

私が、そんな……

お前なら使いこなせる。ガウェイン卿もきっと、それを望むだろう

 

ドーヴァーの戦いに勝利した日。円卓の騎士ガウェイン卿が死んだ日。その夜、私はガラティーンを受け継いだ。

ベディヴィア卿は言う。

私はこうも思う、死んだ騎士の魂は、新たな英雄へと受け継がれる、と。ガウェイン卿の望んだアーサー王の世を作るのは、残された我々だ。では、その先は?アーサー王が聖杯を手にし、新たな世を作ったその先。アーサー王が死に、私が死に、お前が、そしてこの場にいるすべての英雄、戦士たちが死んだその先の世界には何がある?我々の魂を受け継ぐのは誰だ?

 

我々の戦いは、きっと、後の世に英雄譚として語り継がれるだろう。ガウェイン卿の死も、アーサー王、ベディヴィア卿、他の円卓の騎士たちの伝説も。

我々が死んだその先の世界で、その魂を受け継ぐ物はいるのだろうか。次の世代、その次、そしてそのずっと遠く先の世界に、英雄はいるのだろうか。それほど遠い世界であれば、もしかしたら、騎士も戦いも存在しない世界になっているかもしれないな。

その魂を受け継ぐ者がいなくなった時。それが、英雄や騎士の本当の死なのかもしれない。少なくとも、我々が生き続ける限り、ガウェイン卿の魂は生き続ける。

私は、受け継いだ剣“ガラティーン”を鞘へ戻し、焚き火の火を消して横になる。途端に、日中の戦いの疲れが重く身体にのしかかる。

仰向けになり、木々の間から見える満天の星空を見上げる。ずっと遠く、その先の世界を生きる名も知らぬ英雄たちも、同じ空を見上げているのだろうか。私の魂は彼らの中で生き続けることが出来るのだろうか。

今日は長い一日だった。本当に、長い一日だった。

せめて今は、静かに眠ろう。

ろくでなし、2人、防波堤にて

俺はきっと、何者にもなれずに死んでくんだろうな

最悪に心地の悪い蒸した空気の中、俺たちは雨上がりの夜空の下で、工場の煙突から吹き出す青い炎を眺めていた。

7月9日

いつもと変わらない、何もない日曜日

扇風機の前で、何度も読んだ漫画をもう一度読み返し、時折くだらない会話をしながら日中を過ごし、夕方日が暮れると、2人でのそのそとコンビニへ向かい、ざる蕎麦と冷やし中華と、一番安いラクトアイスを一つ買い、それを蒸し暑い部屋で食べる。

この世界に生きている人間は俺と彼女だけで、そして俺たちのこんな日々はきっと、永遠に続くのだろう。そんなことを、ぼんやりと考えていた。

ねぇ、海に行きましょうよ

カップのバニラアイスを2人、半分ずつ食べ終え、少し冷たい廊下のフローリングでボロ雑巾のように横になっていた時。彼女は俺の手を握り、そんなことを言った。

雨、降ってんじゃん

やみましたよ、ほら

彼女は頭上を指差して言う。その先には当然、雨上がりの澄んだ夜空など見えず、黄ばんだ天井が見えるだけだ。

どうして海なんだよ

海じゃなくてもいいんです、どこでも、外の空気を吸いたいんです

このクソ暑いのに?

このクソ暑いのに、です

そうか

なら、しかたねぇな。と、俺はゆっくり立ち上がり、椅子に掛けていたよれよれのジーンズを履き、棚の上からバイクのキーを取る。玄関を見ると、彼女は両脇にヘルメットを抱え、嬉しそうに笑っている。

なんか、スイカ畑の人みたい

あっ、帰りにマックスでスイカも買って帰りましょう、4分の1のやつ

ドアを開けると、部屋の中よりはほんの少しだけ涼しい空気がじっとりと汗ばんだ肌に伝う。ボロのバイクにまたがり、エンジンをかける。彼女は何も言わず、俺の後ろに乗り、そして腕を回す。お互い、汗ばんだ肌が触れ合う。心地悪さはない。

出来るだけ車の少ない道を選びながら、俺たちは何も話さず、海へ向かう。海へ近づくにつれて、ぬるく湿った風がじっとりと体にまとわりつき、その、先の見えない暗い夜道はまるで、俺の人生を表しているようにも感じられた。ただ、背中に感じる僅かな重さと温かさ、息遣い、それだけを救いに、俺はその道を進む。

永遠にも続くかと思われた道はあっさりと終わり、突き当たりの防波堤の前で俺はバイクを止めた。防波堤の上に登ると、人工島の工場地帯の輝きが目の前に広がる。

無数の煙突から吹き出す炎と煙は夜空を赤く染め、まるで繁華街のネオンのような鮮やかな色をしたライトが、巨大な魔物のようなタンクを照らし出す。いつから世界に夜は無くなったのだろうか。この輝きは、人類の文明の輝きだ。進化と繁栄の光だ。夜を忘れた人類は、その先に一体

ねぇ、私のこと忘れてないですか

むっとした声が足元から聞こえる。見ると、彼女が頬を膨らませながら、両手を俺へ向けている。俺は彼女の手を取り、防波堤の上に引き上げる。

わぁ、綺麗、すごいすごい

彼女は大げさに両手を広げ、そんなことを言った。なぜか被りっぱなしだったヘルメットを彼女の頭からもぎ取り、防波堤の上に座る。タバコに火をつけようとして、そこで、ライターを忘れてきたことに気づく。

あっ、火ですか、まかせてください

言って、彼女は煙突の炎に手を伸ばす。轟々と燃え盛る炎を摘むように指先に取り、それを俺の咥えるタバコにつける。タバコに火が移ったのを見て満足そうに、彼女は指先の火を吹き消した。

前も言ったけど、あんまりそういうの、してほしくないんだけどな

俺は夜空に煙を吐き、言う。

いちいち、俺とは違うってこと、思い出しちまう

別にいいじゃないですか、違ってても、一緒にいるんですから

今はそうだけどさ、なんか、いつかどっか遠くにいっちまうんじゃないかって、そんな風に思っちまうんだ

俺が言うと、彼女は可笑しそうに笑い、そして俺の隣に座り、その華奢な体を俺に寄せる。彼女は何も言わなかった。否定するわけでも、肯定するわけでもなく、ただ、鼻歌を歌いながら、俺の手を握っていた。それでよかった。俺たちには、それで十分だった。

俺はきっと、何者にもなれずに死んでくんだろうな、この世界のどこかで、生きてることも死んだことも、誰にも知られずにさ

工場の輝きを見ながら、小さく呟く。彼女は鼻歌を口ずさむのをやめ、俺を見る。

あなたがこの世界で何者にもなれなくても、私には、あなたしかいませんよ

どうして?お前には力があるのに、こんなろくでなしの男しかいないなんて、そんなことねえだろ

彼女は少しむっとした顔をして、それから、工場地帯を隠すように手のひらでなぞる。彼女のなぞった場所から光が消えていき、そして最終的に、全てが暗闇に包まれる。

おい、何を……

次の瞬間、彼女が俺を抱き寄せる感触、そして俺の唇に何か柔らかいものが当たる。波の音、風の音、虫の声、先ほどまで聞こえていた全ての音が遠くフィルターの先に聞こえているような感覚。目を開いているはずなのに、何も見えない。ただ、彼女の温もりと息遣いだけは確かに感じられる。

永遠とも一瞬とも思える時が経ち、雲の切れ間から月明かりが俺たちを照らした時。まるでスイッチを押したかのように工場地帯の全ての光が灯された。惚ける俺をよそに、彼女は何事もなかったかのようにまた鼻歌を口ずさみながら、工場地帯の輝きを見つめている。ただ、その頬がほんの少し、紅く染まっているように見えた。

私は、ろくでなしのあなただからいいんです。家で漫画を読んでゴロゴロして、コンビニで買った安いアイスを2人で半分こして食べて、たまにバイクでお出かけして、そんな生活が好きなんです

彼女は静かに、鼻歌を歌うように言う

特別じゃなくていいんです。あなたはあなたで、私にとってのあなたでいてくれるだけでいいんです

最後の言葉は、まるで子どものわがままのように聞こえた。そんな彼女が愛しく思え、俺は彼女の肩を抱き寄せた。彼女は何も言わず、その小さな身体を俺に預ける。

それから俺たちは、どれだけの時間その景色を見ていたのか。どちらともなく立ち上がり、防波堤を降り、バイクに乗る。帰り道、今度は闇へ向かう道ではなく、光へと向かう道だ。

この世界に永遠なんてものはない。そんなことは知っている。永遠に続くと思っている退屈な生活も、何もない人生も、いつかふとした瞬間に終わりを迎える。だからこそ、俺たちは暇潰しのような今の時間こそを、大切に生きなければならない。なんて、そんな大層なことを言ったところで、俺は明日からも変わらず、ろくでなしの人生を送り続けるのだろう。

ただ、背中に感じるこの温もりがある間は。その間だけは、この退屈でくだらない、きっと何者にもなれないそんな人生も悪くはない。

スイカを買って帰ろう。

4分の1のやつを買って、帰ろう。

悟りの書 2017.03.18

祖父の古い知り合いに、世界を旅しながらおかしな物を買い集める古物商がいる。

彼は様々な美術品を仕入れては世界の金持ちに売り歩き生計を立てているのだが、その仕事の中で、個人の日記や写真を好んで収集する癖がある男だった。曰く、リアルな人間の生き様こそ、最高の美術品である、とのこと。そして彼自身、その言葉を裏付けるかのように、奇妙で数奇な人生を送っていた。

そんな彼から連絡があったのは、連休最終日の夕方のことだった。

面白い物を手に入れた、お前に必要な物だ。

連絡を受けたその1時間後、彼は俺の家で缶コーヒーを飲みながら、そんな事を言った。約三年ぶりの再会であったが、相変わらずの様子に俺は少し安心する。

彼は俺が子どもの頃から、全く変わらない。初めて出会った時から、何一つ。白髪頭と皺だらけの顔も、年の割にがっしりとした身体つきも、つかみどころのない飄々とした立ち居振る舞いも、世界の全てを知っているかのような瞳も。

悟りの書。協会で、珍しく極秘扱いされていた品なんだがな、その実は単なる個人の日記だ。しかし、内容は非常に興味深い。お前なら理解出来るだろう。なぜ俺が、今、お前にこの日記を渡したのかも、な。

言って、彼が俺に渡したのは、ボロボロの日記帳だった。埃臭い皮の表紙には、恐らくタイトルと持ち主の名が書かれていたのだろうが、それは擦れて見えなくなっている。バラバラとページを捲り、すぐにその内容の不自然さに気づく。

奇妙な言い回しの英語、癖や訛りではなく、日本で言うところの古文のような言い回しだと思う。それも、見たことのない文法だ。独特の言い回しや、よくわからない単語が使われているが、適当に書かれているわけではなく、法則性は見える。読みにくかったが、内容は辛うじて読み取れる程度であった。それよりも気になったのが、その日記の日付である。

これ、いつの日記です?

彼はいつものように含みを持った笑みを浮かべ、そして缶コーヒーを飲み干し、立ち上がった。

書かれている通りさ、2017年の1月から5月までの日記だよ。

明らかにそれ以前に書かれた物じゃないですか、少なくとも一世紀以上は前だ。

さすがだな。やっぱりお前は筋がいい。だからこそ、お前にこの日記を渡したいと思ったんだ。

彼は楽しそうに笑い、玄関へ向かう。

一つ、教えてやる。その日記は1800年台後期のイギリスで書かれた物だ。持ち主は不明だが、保管状況から、協会の要人であったと思われる。偉いさんが悪ふざけで書いたのか、預言者の書いた預言書か、それともタイムトラベラーの日記か。いずれにせよ、真実がわかる時は近い。

その言葉と古びた日記だけを残し、彼は俺の前から去って行った。言及はしない。彼に対してその行為は無意味だという事を俺は知っている。彼は世界の全てを知っているが、俺が知り得ることは、彼が自分から話したことだけだ。

さて、この日記を一通り読んでみたが、これがどういった物なのかすぐに理解出来た。いや、全てを理解したわけではない。それどころか、ほんの一部さえも理解出来ていないかもしれない。しかし、俺は確信を持って言える。

ここに記されている内容は、真実だ。

この時代の日本で、その出来事を見ていた人間は、一世紀以上前のイギリスに存在していた。預言などではなく、ただ、彼の体験した真実が書かれている日記だ。

真実がわかる時は近い。

古物商の彼の言ったように、この日記は5月13日で途絶えている。その内容は、未だ読み取れない。時間をかけて読み取る必要がある。この日記の持ち主に、一体何があったのか。この国に、一体何が起こるのか。

その出来事を示唆する内容は、3月辺りから書かれている。その一部を、俺なりに訳した物をここに記そう。どれだけの人間の目に留まるかわからないが。この日記を託された以上、俺には記し伝える義務がある。この真実を、一人でも多くの人々へ。

 

2017.3.18

彼女たちが家へやってきた。アジア人は無知な礼儀知らずが多いが、彼女たち姉妹は例外だ。自身の立ち位置をしっかりと理解し、その上で出来る限りの協力の姿勢を見せてくれる。私のような、ただの一つのピースに対しても。計画を話した時も、彼女たちは何も言わず、ただ静かに頷くだけであった。自分たちの背負う業を知り、避けられない運命を知り、それでも怒ることも泣くこともせず。

この国を訪れて暫くが経つ。人々と生活を共にし、彼らの実情をこの目で実際に見て、ようやくこの計画の意味を理解した。個人が意見を主張し、くだらないことで争いが起き、人々は常に不満を口にし、変化や革命を望みながら、それでも行動を起こそうとする者はいない。仮初めの平和、緩やかな澱みの中で、この国は静かに腐り落ちようとしている。

沈みかけの船の上で、唯一の救いの道を知る者は、今、目の前にいる2人の少女だけだ。彼女たちは私の話を聞いている間、テーブルの下でずっと手を握りあっていた。ホテルのロビーを抜けてすぐに、泣き崩れていた。私の前では気丈に振る舞っていたが、一国の終焉を背負うには彼女たちの背はあまりにも小さすぎる。

時は近い。私に出来ることは、彼女たちの運命と、この国の最後を見届けることだけだ。

君と春雨

そうじゃないわよ

そう言って君は、おかしそうに笑った。

カップの春雨スープとミルクティーが2つずつ入ったコンビニ袋と、それから口の半分開いたアホ面をぶら下げ、俺は立ち尽くす。

私が好きなのは、春の雨。別に、春雨スープが食べたかったわけじゃないわ

そう言って彼女はもう一度、くくっと笑う。俺は途端に恥ずかしくなり、部室のテーブルの上に春雨スープのカップを投げるように置く。

違う、俺が食べたかっただけだから

ムキになりカップのビニールを剥いだところで、この部室には“湯”がないことに気づく。俺はカップを投げ捨て、ため息を一つ、椅子に座る。彼女はそんな俺の様子を見て、今度は瞳だけで笑い、そうして、手元の本に視線を落とした。

グスコーブドリの伝記

残念、銀河鉄道の夜でした

彼女は得意げに言い、そのボロボロに読み古された本のページをめくる。

宮沢賢治は、彼女のお気に入りだ。と、いうより、彼女は宮沢賢治しか読まない。文学部の部長でありながら、一人の作家の小説しか読まないというのは、どうかとも思うが。

私は、宮沢賢治以外の文学を知らないの

それが彼女の口癖だった。

 

そしてジョバンニはすぐうしろの天気輪の柱がいつかぼんやりした三角標の形になって、しばらく蛍のように、ぺかぺか消えたりともったりしているのを見ました。

 

俺は、暗記するほど読み込んだその一節を読み上げながら、ミルクティーのボトルの蓋を緩め、彼女の前に置く。

 

それはだんだんはっきりして、とうとうりんとうごかないようになり、濃い鋼青のそらの野原にたちました。

 

彼女は、凛とした鈴のような声で続ける。

 

いま新しく灼いたばかりの青い鋼の板のような、そらの野原に、まっすぐにすきっと立ったのです。

 

銀河ステーション、銀河ステーション

俺が声色を変えて言うと、彼女は吹き出すように笑った。俺も同じように、ケラケラと笑う。

部室の中には、2人の笑い声と、それから雨の音だけが静かに響いている。

春の雨は、好きなの

彼女は、窓の外を降る雨を見つめ、そんなことを言った。

暖かくって、静かで、それでいてどこかお祭りみたいな騒々しさもあって

薄暗い部室の窓から見る雨の景色は、まるで光を放つ絵画のようで、その前に座る季節外れの冬服を着た彼女は、絵画の中に描かれた幻想のようにも見えた。俺は、そんな彼女の姿に見惚れると同時に、漠然とした不安を覚えていた。いつか彼女が、そう、まるでカムパネルラのように突然に、俺の前から消えてしまうのではないかと、そんな不安を。

 

僕たちと一緒に乗って行こう。僕たちどこまでだって行ける切符持ってるんだ。

 

俺が言うと、彼女は目を丸くして俺を見る。俺は少し恥ずかしくなって、彼女から目をそらした。雨音に混じり、彼女の小さな笑い声が聞こえる。

大丈夫、と、彼女は言う。

私は、サザンクロスでも石炭袋でも降りないわ

本を閉じ、しっかりと俺の目を見て、彼女はそう言った。優しい笑顔だった。

けれどもほんとうのさいわいは一体何だろう。

銀河鉄道の夜は、宮沢賢治の死の直前まで変化を続けた作品だ。その中で最後、ジョバンニはカムパネルラに向けてそんな言葉を投げかけている。それは、賢治自身が読み手へ向けて投げかけた問いなのだと、俺は思う。

春雨スープが食べたくなったわ

彼女は立ち上がり、片手に春雨スープのカップを持ち、もう片方の手で俺の手を取る。

給仕室にポットがあったはずよ

彼女は悪戯な笑顔を俺に向ける。暖かい、春の雨のような気持ちが俺の心を包む。

部室の外に出ると、少し肌寒い空気が俺たちを包む。春の雨は未だ止む気配はない。

ほんとうのさいわいは、一体何だろう

今なら、そのジョバンニの問いにも答えることができる気がする。

俺の手を引いて走る彼女の、揺れる長い黒髪をぼんやりと見ながら、そんなことを思った。

追伸、木星はもうすぐ春になります

木星の彼女から、一年ぶりにメールが届いた。

地球と木星の時差がどれくらいあるかなんてのは、よくわからない。ただ、ずっと遠くの星に、ずっと昔、今ここに存在する人々のためにこの地球から飛び立った人々が住んでいるのだと、そんな話をぼんやりと聞いたことがあるだけだ。

『Re:素敵な人、地球に春はありますか』

彼女から初めて届いたメールは、そんなタイトルだった。

街外れに、古い電波塔がある。ずっと昔、“空に届く木”と呼ばれていたその電波塔は、今となっては錆びだらけのガラクタでしかない。俺はそのてっぺんでラジオを聴きながら、このくたびれたシャツのような世界を見下ろすことが好きだった。

その木偶の坊は、時折、不思議な電波を拾う。それは、どこかで聞いたような懐かしい歌だったり、犬の鳴き声だったり、電車の走る音だったり、誰かのすすり泣く声だったり。いつも聞いている、それでいて、まるでどこか遠くの別の世界の出来事のような。そんな不思議な音だった。

ある日、俺は空へ向けてメッセージを飛ばした。宛先は無い。風船に手紙を付けて飛ばすような、そんな感覚だった。

『地球より、何処かへ。あなたの世界には、どんな音がありますか』

件名に、ただ、それだけを書き、その塔のてっぺんから空へ向けてメールを飛ばす。ボロボロの塔は、ただのとんがった鉄でしかなかったが、しかし、それだけで十分に役目を果たしてくれた。その時は、まさかこのメールが誰かに届くなんて。そしてまさか、返信が来るなんて。思ってもいなかった。

 

Re:素敵な人、地球に春はありますか

初めまして、地球の素敵なあなたへ

私の周りには、色々な音があります。風の音、雨の音、電車の走る音、飛行機の飛ぶ音、小惑星が外壁に当たって砕ける音、渡り鳥たちの声、バニラ(うちで飼ってる犬です)の鳴き声。同級生のみっちゃんの笑い声。シン君の吹くトランペットの音。外壁を流れる水の音。それから、私が好きな、春の音。

木星には、春があります。夏も秋も、冬もあります。冬は、私はあんまり好きではないですけどね。

私の遠い祖先は、ずっと昔は地球に住んでいたと聞きました。人類が増えすぎて、地球がいっぱいになってしまったから、選ばれた半分くらいの人々がこの木星へと移住したのだ、と。

地球は、本当に綺麗で美しい星だったと、伝えられています。先祖たちは、その美しい星を守れたことを誇りに思っていたらしいです。

地球に春はありますか?

今、地球は、美しい星ですか?

お返事、待ってます。

 

メールを飛ばしてから、ちょうど一年後のことだった。機械的な文字の羅列でしかないが、まるで、手紙に書いたような暖かさのある文章。俺はその、7億5000万km先から届いた手紙を保存し、何度も何度も読み返した。そして、彼女への返信を書く。

 

地球は、ちょうど春です

木星の、あなたへ

素敵な返信を、ありがとう

地球にも春はありますよ。今がちょうど、その時期です。満開の桜の木の下で、このメールを書いています。

地球は、美しい星です。空は青く澄み、どこまでも無限に広がる海と、広大な大地に広がる緑の森、山々。風や空気までもが、まるで生きているような。そんな、生命の輝きに溢れているのです。

夜、星空を見上げながら、遠く離れた星々へと想いを馳せます。

木星は、その大きさから、地球へと向かう小惑星の殆どを受け止めてくれていると、聞いたことがあります。しかし、そのことを知っている人間は、地球にも多くはいません。

はるか昔、増えすぎた人類を守るため、遠く離れた星へと旅立った人々がいます。そのことを知っている人も、今となっては少ないです。

だけど、僕は知っています。だから、木星のあなたに伝えたいのです。

ありがとう。

あなたのおかげで地球は、美しく素晴らしい星です。

 

俺は、彼女に嘘の返信をした。度重なる戦争により犯された地球の空は、常に灰色に濁り、海は黒く腐り、森は枯れ、四季さえもなくなった。ただ、時折、この世の終わりのような重い雲から黒い雨が降り、そして雷鳴の向こうに爆発が見えるだけだ。

しかし、遠く離れた木星の彼女には、そんな現実を知って欲しくなかった。彼女の祖先が、命をかけて守ったこの星が、今はこんな荒れ果てた星になってしまっているなんて。そんなこと、俺には言えなかった。

それから、俺と彼女は一年に一通のメールのやり取りを続けた。どういう仕組みかはわからないが、7億5000万kmの距離を、メールは片道6ヶ月で届くらしい。彼女は自分のことをよく話し、そして同時に、地球の様子を聞きたがった。その度に、俺は嘘をついた。ずっと昔に見た風景や、聞いた景色をつなぎ合わせ、地球を素晴らしく美しい星であり続けさせた。

ただの自己満足かもしれない。しかし、それでもいい。彼女にだけは、美しい地球を見せてあげたかった。どうせ、出会うことなど、叶わないのだから。

 

『もうすぐ、そちらへ行きます』

 

そのメールが届いたのは、空の果てに幾つもの爆発が見えた日のことだった。そんなタイトルから、メールは書き始められていた。

 

もうすぐ、そちらへ行きます

地球の素敵なあなたへ

遠く離れた文通(メールよりも、こっちの言い方の方が素敵でしょう?)も、もう10年になりますね。

あなたからの最初の返信の内容を、覚えていますか。私たちのおかげで、地球は美しい星であることができる、と。そんな風に、書いてくれましたね。本当に、嬉しかった。

木星では、今、革命が起こっています。地球を取り戻すため、多くの軍隊が組織され、地球へと向かっています。私も、明日、地球へと向かう船に乗り込み、そちらへと向かいます。到着は半年後の予定です。このメールが届くのと同じ頃ですね。ふふふ。

私は、造られたアンドロイドだと、最近知らされました。木星に、生きている人類はもうほとんどいません。私たちアンドロイドは、残された数名の人類のために、仮想の現実を作るための存在。心も全て、プログラムされただけのものだ、と。

革命軍に入った時、今の地球の写真を見せられました。ショックでした。あなたから聞いていた姿とは、まったく違っていたから。

でも、私は怒ってはいません。その嘘は、あなたの優しさだって、わかったから。

一年に一度、あなたから届くこの手紙だけが、私にとって唯一の生き甲斐でした。アンドロイドの私が、その瞬間だけ“心”を感じることが出来ました。

地球の素敵なあなたへ

素敵な嘘を、ありがとう。

私に、心を感じさせてくれて、ありがとう。

嘘をついていて、ごめんなさい。

地球に着いたら、あなたを探します。もし、こんな私の話を、まだ聞いてくれるなら。もう一度、今度は一年なんて待たずに、素敵な話をしたいです。

追伸、木星はもうすぐ春になります。本物の満開の桜を、あなたと見たかったな。

 

衝撃は、受けなかった。俺の錆びついた心は、その内容を単なる情報として受け取ることしかできなかった。彼女とのメールのやり取りができなくなるかもしれないという事実だけが、ただ悲しかった。そして同時に、彼女と出会うことが出来るかもしれない、その可能性に、胸が踊る。

錆びついた心が、少しずつ暖かくなっていくのを感じる。

このメールを彼女が書いたのが半年前とすれば、彼女はもう地球に到着しているかもしれない。急いで俺のことを知らせなければ。俺は慌てて彼女へ返信を打つ。

 

叶うことなら、会って話をしたいです

木星の素敵なアンドロイドのあなたへ

真実を、話してくれてありがとう。

そして、嘘をつき続けていてすみません。

ただ、あなたには、地球は美しい星だと思って欲しかった。たとえそれが嘘であっても、僕の単なるエゴであっても。

ニホンという島国の、トーキョーという都市に、私はいます。わかりやすいので、すぐに見つけられると思います。トーキョーで、一番大きな錆びついた電波塔、それが僕です。

もし、僕のことを人間だと思っていたのだったら、それは本当に、ごめんなさい。ただ、僕が人ではなく、アンドロイドでもなく、単なる電波塔でしかないと知って、あなたが去ってしまうことが怖かったのです。

でも、もう、嘘はつきません。

あなたのことを愛しています。

叶うなら、あなたと会いたい。会って、今度は嘘や夢物語ではなく、本当の話をしたい。

私はずっと、この場所で、あなたを待ち続けています。

 

遠くの空に、爆発が見える。あれが恐らく、木星からの軍隊なのだろう。地球は、どうなってしまうのだろうか。いや、どうだっていい。役目を終えた電波塔には……

 

『あなたが電波塔でよかった』

 

その返信は、一年も経たず、いや、一時間も経たないうちに、俺の元へと届いた。

 

あなたが電波塔でよかった

おかげで、私たちは7億5000万kmの距離でも、素敵な文通をすることができたから。

おかげで、すぐにあなたのことを見つけることが出来たから。

 

短い文章だった。

しかし、俺には、俺たちには、それだけで十分だった。

相変わらずの薄暗い空に、薄桃色の花びらが舞った。

 

木星の桜です、あなたに見せたくて、持ってきてしまいました。

 

彼女の“声”が聞こえた。

 

その日、四季を失った地球に、数世紀ぶりの桜が舞った。

孤独、痴女求め、春夜を行く

昔、噂に聞く痴女を求め、夜な夜な街を彷徨い歩いていた時期があった。

社会人になって2年目の年。当時、倉庫の現場勤務であった俺は女性という存在とは無縁であり、若さ故の有り余る欲求を常に持て余していた。どうにかして、なんとかならないものか。日々、悶々と悩んでいた俺は、ふと、ずっと昔に義兄に聞いた話を思い出した。それは、家から徒歩20分の距離にある、母校の前の公園に、痴女が出るという話だった。

当時の俺にとって、痴女という存在は、まさに救世の女神であった。と、そんな風に思うほどに、俺の心は飢え、そして狂っていた。

雨上がりのジメジメとした、春の夜。俺は噂の痴女を求め、夜の街へと繰り出した。夜の街と言っても、デカい川と妙な遺跡が有名なだけの、兵庫県の片田舎である。痴女どころか、人の姿さえなく、俺は一人、静まり返った住宅地を鼻歌交じりに歩いていた。

 思えば、ずっと昔から、こんな風に、静かな街を一人、鼻歌を口ずさみながら歩いていたような気がする。

小学生に上がるタイミングと同時に、その街へ引っ越してきた俺には、当然、友達などおらず。幼少期を母親に檻に入れられ育っていたこともあり、同世代の子供たちとどう関わっていいのかがわからず、ただ、暴力だけの日々を送っていた。いつも傷だらけになって帰る俺を、母は不安そうに見つめ、そして父は頭を叩き褒め称えた。

一人で戦う男、カッコいいじゃねぇか。父のその言葉を誇りに、俺は周りの子供たちと戦い続けた。そして気づいた時には、周りには誰もいなくなっていた。それが、小学2年の頃の話だ。

俺には友達など必要なかった。母親は、毎日俺に100円玉を握らせ、家から送り出した。俺はただ、一人で街をふらふらと歩き、母親に貰った100円玉で、学校の近くのお好み焼き屋の前にあるガチャガチャを回し、そしてそのオモチャで日が暮れるまで遊ぶ。そんな日々を送っていた。当時の俺は、生きるということさえ、よくわかっていなかった。

そんな昔のことを思い出したりしながら、昔歩いた道を歩く。あの日から変わらない、通学路のフェンスに開いた穴。随分と低くなった学校の塀。足を滑らせ落ち、大怪我をした溝。お好み焼き屋の前に並んだ、ボロボロのガチャガチャ。

夜の街を歩くのは、不思議な気分だった。あの頃、一人で遊んでいた道。今は車で毎日通勤で通う道。そんな道を、俺は痴女を探して歩いている。

痴女を探す俺の深夜徘徊は、夏ごろまで続いた。時間帯を変え、コースを変え、痴女を探して歩き続けた。俺は、本気で痴女に会いたかった。エロいこととか、したりされたりしたかった。しかし、それだけではなかったのだ。俺は、彼女を助けてやりたかったのだ。

一人、夜の街を彷徨い、猥褻行為に及ぶ彼女は、あの頃の俺に似ていた。孤独の中を一人歩く彼女を、救ってやりたかった。いつしか俺は、存在するかさえわからない痴女を救う為、夜を進むようになっていた。

暗闇の中を、進む。街灯の下に、季節外れのコートを羽織った人影が見える。ゆっくりと顔を上げたその人物と目が合う。長い髪、白い肌。それが、女だと気づいた時、その女はおもむろにコートを開く。街灯に照らされ露わになる白い胸、整った毛に隠れた陰部。俺は昂ぶる気持ちを抑え、薄ら笑いを浮かべる彼女を抱き寄せる。

俺は彼女の華奢な体を強く抱き締め、耳元で言う。

もう大丈夫、と。

彼女は、どんな反応をするだろうか。驚いて声を上げるかもしれない。俺を押し退け、逃げ出すかもしれない。それとも、襲いかかってくるかもしれない。

しかし、彼女の反応はそのどれでもなかった。彼女は震える手を俺の背に回し、そして俺の胸に顔を埋め、嗚咽を漏らす。

ずっと、ずっと、誰かにこうしてもらいたかった。

彼女は泣いていた。俺は彼女を抱いたまま、その傷んだ髪を撫でる。近くで見ると、彼女の肌は艶を失い、少し汚れているようにも見えた。

もう大丈夫、大丈夫だから。

彼女を強く抱き、俺も、涙を流す。救いが必要なのは、俺も同じだった。俺たちは暗い夜の中、2人、涙を流しながら抱き合った。

ありがとう。

しばらく泣き続けた後、彼女は顔を上げ、赤い瞳で照れたように笑い、そう言った。もう一度、彼女を抱き寄せようとした時、そこに彼女の姿はなかった。ただ、街灯の光だけが静かに、音もなく、俺の孤独を照らしていた。

幻の痴女は、もういない。愛を知った彼女は、孤独でなくなった彼女は、その存在を失った。俺は再び、孤独の夜を歩む。振り返ると、先ほどの街灯の下に、一人で遊ぶあの頃の俺の姿が見える。

痴女に会いたいという気持ちは、今も変わらない。それは、俺にとっての憧れ、いつか出会いたい存在、いつか見たい景色、夢。その全てなのだ。

女はエロい方がいい。

変態の方がいい。

だけど、幸せでなければならないのだ。孤独の痴女は、いらない。居てはいけない。だから俺は、孤独の夜を行く。この世界のどこかに居る、彼女の孤独を救うために。

3月も半ばとなるが、未だに夜は冷える。

そんな夜の中、どこかで、涙を流し孤独の夜を歩む痴女が居る。

100円玉を握りしめ、一人で彷徨う子供が居る。

痴女を求め、夜な夜な歩くバカが居る。

味無しクッキー“アイヌより愛を込めて”

スーパーマーケットのバレンタイン特設コーナー。真剣な表情で、チョコの手作りキットを選んでいる制服姿の女学生が一人。口元に指を当て、何度も箱を取っては戻しを繰り返す。そんな光景を見ながら俺は、日本もまだまだ捨てたものではないな、と、そんなことを思う。日本の女学生は、かわいい。誰がなんと言おうと、世界中のどの国の女学生よりも、だ。

日本のバレンタインデーは、おかしい。と、ここ数年で、そんな意見をよく聞くようになった。確かに、バレンタインデーというのは気になる人にチョコレートを渡して愛の告白をする日でも、友達同士でチョコレートを交換し合う日でも、好きでもない職場の人にデパートで適当に買ったチョコレートを渡す日でもない。愛する恋人と、愛を確かめる日だ。

日本人の悪いところは、異国のイベントを日本流に捉え、楽しいところだけをマネするところだと思う。クリスマスにキリストの生誕を祝う人間や、ハロウィンに豊作を願う人間は、この国にはほとんどいないだろう。しかし、俺は日本人のそういうところが嫌いじゃなかった。楽しいことは、素直に楽しめばいい。もちろん、日本のバレンタインデーも大好きだ。

俺は、チョコレートが好きだ。誰かに何かを貰うことが好きだ。それに何より、女の子が好きだ。女学生や美少女に限らず、女の子はみんな好きだ。そんな女の子たちが、勇気を出して、チョコレートと想いを贈る。そんな素敵な日が、日本にはある。

さて、俺自身にとっても、バレンタインデーは特別な日だった。以前、暗い学生時代を送っていたと話したことがあるが、そんな俺でもバレンタインデーにはチョコレートを貰っていた。貰っていたのだ。ふふふ、どうだ、悔しいか。

高校二年のバレンタインデーの話だ。その年、俺はなぜかやけにチヤホヤされており、バレンタインデーには十数人の女の子たちからチョコレートを貰っていた。と、言っても、当然の如く、大量生産の所謂“義理チョコ”というものだったのだが。それでも、女の子から手作りの何かを貰えるのはとても嬉しかった。

そんな中、仲は良かったが、チョコレートをくれなかった女の子がいた。小学校の社会の教科書に載っていた、アイヌの親子の父親によく似た女の子だった。アイヌの親子の父親によく似ているほどなので、顔はあまり可愛くはない。しかし、俺は彼女が嫌いではなかった。

昔から、目立つことやチヤホヤされることが好きだった俺は、生徒会やその他の活動で、人前に立って話すことが多かった。そんな俺のことを、彼女は、よく褒めてくれていた。教師や先輩、仲間、俺を褒めてくれる人たちは多くいた。しかし、彼女は他の人たちと違い、心のこもった言葉をくれていたように思う。

それは、きっと彼女が、俺と二人きりの時にだけ、俺のことを褒めてくれたからだろう。彼女は、俺が一人でいる時、駆け寄って来て「今日の発表、すごくよかったから」とだけ言い、そのままどこかへ駆けて行くような、そんな子だった。

さて、話はバレンタインデーに戻る。その年、十数個のチョコレートを貰って浮かれていた俺に、アイヌの親子の父親によく似た彼女は、申し訳なさそうに、俺に渡すチョコレートがないことを告白する。特に、気にはしなかった。他にもチョコレートをくれなかった子はいるし、それに俺はすでに十数個のチョコレートを貰っていたのだ。何より、彼女はバレンタインデーに意中の人にチョコレートを渡したり、友達同士で交換しあったりするような子ではなかった。

俺は落ち込んでいるふりをして、彼女に「来年は、待ってるから」と言った。彼女は、わかった、と言い、そしてまたどこかへ駆けて行くのだった。

翌年のバレンタインデーは、誰からもチョコレートを貰えなかった。高校三年の二月は、すでに自由登校期間だったこともあり、バレンタインデー当日は家でゲームをして過ごしていたように思う。

そして、次の登校日。バレンタインデーから数日が過ぎていたが、アイヌの親子の父親によく似た彼女は、約束通り、俺にお菓子をくれた。チョコレートではなく、クッキーだった。どうせ、チョコレートはたくさん貰っているだろうから、とのことだ。その年に貰ったのは、そのクッキーだけだった。

可愛らしい袋の中に、小さく、歪な形をしたクッキーがたくさん入っていた。特に何かの形をしているわけじゃない。彼女の不器用さが見え、微笑ましかった。一口、食べる。味がない。二口目。やはり味がない。三口目で、俺は自分の舌がおかしくないことを確信する。そのクッキーには、味がなかった。うまいまずいではない。味が、ないのだ。俺はぼんやりと、外を見ながら、無心で味無しクッキーを口に運び続けた。感情は、特になかった。

そんなこんなで、高校を卒業し、アイヌの親子の父親によく似た彼女と関わることもなくなったそんなある日。俺は仕事帰りに立ち寄ったラーメン屋で、彼女と再会することとなる。働き始めて2年目の春のことだった。

会社からの帰り道にあるラーメン屋。駐車場が狭かったので、入ることはなかったが、その日は残業で遅くなり、駐車場が空いていたこともあり、入ってみることにした。そしてそこで、アイヌの親子の父親によく似た彼女と再会する。彼女は、頭にバンダナを巻き、白いエプロンをして働いていた。一年ぶりに出会った彼女は、笑顔で、いらっしゃいと言う。可愛い、と、思った。

それから俺は、しばらく、そのラーメン屋に通うこととなる。正直、そこのラーメンはまずかった。値段も高いし、サイドメニューもチャーハンしかない。俺は、彼女に会うためだけにその店に通っていた。

彼女はいつも笑顔で、お疲れ様と、俺を迎えてくれた。一言二言、話をし、まずいラーメンを食う。チャキチャキと働く彼女の後ろ姿を見ながら、まずいラーメンを食う。それだけでよかった。いつしか、そのラーメン屋は、俺の帰る場所になっていた。

それから約一年、俺は職場が異動となり、仕事帰りにそのラーメン屋に通うことはなくなった。しばらくして、そのラーメン屋に再び行った時、アイヌの親子の父親によく似た彼女の姿はなくなっており、代わりに、バイト募集中の張り紙がされていた。彼女は、辞めてしまったのだろうか。アイヌに帰ってしまったのだろうか。俺は一人、まずいラーメンを食べながら、彼女へ連絡を取ろうとした。その時、連絡先に彼女の名前がないことに気づく。

使い古された言い回しであるが、無くして初めて気づくことがある。彼女とは、いつでも会えるのだと思っていた。彼女はいつも、アイヌの親子の父親によく似た笑顔で俺を出迎え、まずいラーメンを出し、俺の話を聞いてくれると思っていた。

今となってはもう、わからないが。俺はもしかしたら、彼女のことが、好きだったのかもしれない。

明日は、バレンタインデー。世界にハートとチョコレートが溢れる、特別な日。

アイヌの親子の父親によく似た彼女は、今年も誰かに、あの味のしないクッキーを渡すのだろうか。

俺はきっとまた、職場で、何の気持ちもないチョコレートを大量に貰うだろう。チョコレートは嫌いじゃないが、あの甘さは、多すぎると嫌になる。

遠く北の地に想いを馳せながら、たまには味のしないクッキーも悪くないな、と、そう思った。