かきかたの本

書き方の練習

チャーシューを最初に食べる人

日曜日の昼12時

ラーメン二国の店内は、カウンター席までほぼ満員に埋まるほど賑わっていた。

iPadを見ながらラーメンをすする中年男性と、作業服姿の若者の間のカウンターが一席空いているのを見つけ、俺はまっすぐにその席へと向かう。

 醤油ラーメンもやし抜き半メンで、それからチャーシュー丼

慣れた口ぶりで馴染みのバイト君にいつものメニューを頼み、腕時計を外して息をつく。冬の一歩手前ではあるが、ラーメン屋の店内は異様な熱気で溢れていた。この油が蒸発したかのようなねっとりとした湿度と、濃い醤油の匂いが、俺はたまらなく好きだった。

チャーシューニンニク、お待ち

隣の席に、ニンニクが乗ったチャーシュー麺が運ばれてくる。一気に周囲にニンニクの匂いが広がるが、それを気にもせず、作業服姿の若者は嬉々として、迷わずチャーシューを2枚、口へ運んだ。

ああ、彼は性欲が強いんだな。思わず微笑み、俺はそんなことを思う。

ずっと昔の記憶。くだらない話だ。何かのテレビ番組で、心理テストが紹介されていた。内容はシンプルで、ラーメンを食べるときに最初に何を食べるかでその人がどういう人間かがわかる、といったものだった。

その心理テストの答えも、その番組がどんな番組で誰が出ていたのかも、全く思い出せないが、覚えていることが2つある。元グラビアアイドルでタレントのMEGUMIは、チャーシューを最初に食べるということ。そして、心理テストによると、チャーシューを最初に食べる人間は、性欲が強いということだ。くだらない子どもだましな心理テストだ。しかし、その頃の俺はラーメンは最初にまずチャーシューを食べるし、性欲もバリバリの男子中学生であったということもあり、すっかりその心理テストを信用してしまったのだ。

その頃からか、俺はMEGUMIを妙に意識してしまうようになった。同じタイミングで、性欲が強い者というレッテルを貼られてしまった者として、仲間意識というのだろうか。何より、MEGUMIのあの、甘美に濡れた焼けた肌、Hカップオーバーでありながらしっかりと造形を保った重艶な乳房。その見た目や性格から漂うエロスは間違いなく本物で、それは麻薬のように俺の意識を朦朧とさせた。

俺は未だに、MEGUMIという甘美で妖艶な霧の中から抜け出せずにいる。そして、ラーメン屋でチャーシューを最初に食べる人を見ると、この人は性欲が強いんだなと思う。人の記憶というものは、案外、いい加減なものなのかもしれない。本当に大切な人の顔や思い出は、気づくと思い出せなくなっているくせに、こういったくだらない記憶は何年も残り続けている。

さて、そうこうしているうちに、隣の若者はニンニクチャーシューラーメンを食べ終え、それと同時に俺の前にもやし抜きの醤油ラーメンが運ばれる。俺は待ってましたとばかりに割り箸を取り、手を合わせ小さくいただきますと言い、そうしてまずチャーシューをスープに絡めて口へ運ぶのだった。

外に出ると、冷たい冬の風が心地よく俺の体温を下げてくれる。ラーメン二国の濃い醤油スープは、寝起きの昼下がりには少し重過ぎた。

帰ったら、久しぶりにMEGUMIのグラビアを見て抜くか。

不愉快な満腹感を胸と胃袋に抱えながら、重い雲のかかった暗い空を見上げて俺は、そんなことを思う。

彼女もまだ、チャーシューを最初に食べているのだろうか。

終電

アカシックというバンドの終電という曲に惚れ、ミニアルバムを買った。

終電で帰る、嫌われる前に

その歌詞は、胸にグッとくる。vo理姫の歌い方や声が、より切なさを感じさせる。一生懸命に動きながら歌う女性は、本当に魅力的だ。

思えば、5年以上聴き続けているパスピエとの出会いも、最終電車という曲だった。

終電車に飛び乗る、君の背中が嫌いよ

乗り遅れちゃえばいいのに、一寸先は闇なんちゃって

高校時代、部活を引退し、就職も決まった俺は、ほぼ毎日、放課後はすぐ家に帰り、布団の中でラジオを聞いていた。その時、当時はまだ1枚目のミニアルバムを出したばかりで全く有名ではなかったパスピエの最終電車がリクエスト曲として流れたのだ。その歌詞と、vo大胡田N氏の歌声に惹かれ、初めてCDを買った。

未だにパスピエは好きだ。あれから彼女たちは瞬く間に有名になり、アルバムも増えた。それでも俺は、あの雨の木曜日の17時に、薄暗い部屋の布団の中で聞いた最終電車が、一番好きだ。

終電、というものは、色々な気持ちを乗せて走っている。そして、そこに乗らなかった気持ちもまた、存在する。送るものと送られるもの。そこには必ず、別れが伴う。

俺はあまり電車に乗らない。故に、終電とはほぼ無縁ではあるが、だからこそ、そこに憧れに近い感情があるのかもしれない。

今夜も、何処かで誰かの想いを乗せて終電は走る。悲しみや、後悔や、そういった感情を乗せて。あるいは、涙や嗚咽を乗せて。その届かなかった気持ちは、一体何処へ向かうのだろうか。

終電の去った後、誰もいない駅のホーム。静かな線路、踏切。そこに残った想いの欠片。人知れず、深夜の静けさの中を漂うそれは、静かな雪のように降り積もり、そして夜明けの始発電車が来る頃には消えて無くなってしまうだろう。

Happy birthday to いずれ死にゆく者

いつからだろうか。

自分の誕生日が、一年の中で一番の特別な日ではなく、他の日と変わらない、ただ経過するだけの日となってしまったのは。

日曜日の昼下がり、カーテンを閉めた薄暗い部屋に、電子的な銃撃戦の音が響く。俺の放ったミサイルは狙いを大きく外れて敵の機動兵器を通り越し、虚しく空の果てへと消える。同時に姿の見えない敵のスナイパーから放たれた銃弾が俺の頭をヘルメットごと貫き、俺の身体は力なく地面に崩れ落ちた。画面に、You Loseの文字が浮かび上がり、俺はベッドへコントローラーを投げる。

自分への誕生日プレゼントにと、少し奮発して人気のオンラインゲームを買ってみたが、ハズレだった。お陰で、財布の中身は数百円となり、昼飯を買う金さえなくなってしまった。ため息をつき、部屋の天井を見上げる。カーテンの隙間から入り込む午後2時の陽射しが、天井に三角の模様を描いている。

明日、11月7日が自分の誕生日だということを思い出したのは、昨夜のことだった。ここ最近、仕事が非常に忙しく、10月の仕事が片付かないまま11月に入ってしまった。それからすでに1週間が経とうとしているが、俺の頭はまだ10月のままだった。

誕生日、か。

ため息まじりに、天井に向かって呟き、俺は昔のことを思い出していた。

子どもの頃、自分の誕生日は何よりも特別な日だった。数週間前からそわそわとし始め、前日は眠れないほど楽しみにしていたものだ。その日だけは学校からまっすぐに家に帰り、綺麗に包装されたプレゼントを開けるのだ。プレゼントの中身はその年によって、欲しかったゲームやラジコンやお菓子だったりしたが、今となってはあまり思い出せない。俺の大好物を揃えた晩御飯と、アニメキャラクターを模したケーキ。家族みんなが笑顔で、ローソクを吹き消す俺を見つめていた。

その瞬間、その日だけは、俺は世界で一番特別な存在になったような気がしていたんだ。誰もが俺の誕生日を祝い、笑顔で、おめでとうと言った。まるで、夢のような時間。いや、今思うと、あの日々は本当に現実のものだったのだろうか。誕生日だけではない。何をしていても、あの頃の俺は、自分が特別な存在だと信じていた。少なくとも、こんな大人にはならないだろう、と。

 

11月の空気は、今でも好きだ。秋が終わり、冬が来る。この時期になると、気持ちがどこか落ち着かないのは、きっと昔の名残だろう。

Happy birthday to いずれ死にゆく者。

いつの間にか、ベッドに座っていた孤独が俺に向けて言う。

なんだ、また来たのか。

私が来たわけじゃないわ、あなたが呼んだのよ。

長い髪をしたスタイルの良い女の姿をしたこいつは、どうやら俺の孤独らしい。1年ほど前から、何をするわけでもなく、ただ時折、俺の前に現れてはしばらく話をして消える。

私はずっと、あなたのそばにいるわよ。ただ、あなたが認識していないだけ。

なんで俺の孤独なのに、そんな風に俺と全く似てない姿をしてるんだ。

それも違うわ、この姿は、あなたが私をそう認識しようとしているからそう見えているだけよ。

孤独は、手を広げて自分の体を眺め、そして、悪趣味ね、と言った。

まあ、お前が居てくれてよかったよ、お陰で俺は孤独を嫌いにならずにすむ。

それも違う。本当に何もわかっていない人ね。あなたの中の孤独が私なの。あなたが私を好きだと思うなら、あなたは孤独でいることが好きなの。

孤独は俺の隣に座り、でもね、と続ける。

ずっと孤独でいて平気な人間なんて、いないわ。あなたは私を求めてはいけない、そうでなければ、私はいつかあなたを殺すことになる。

俺は平気さ、孤独には慣れてる。

それは、強がりでもなんでもない。これまでだってずっと1人で生きてきた。これからだって。

嘘ばっかり。私にはわかるのよ、ずっとあなたのそばで見ていたもの。本当は一人が寂しくて仕方ないんでしょう。誰かに助けて欲しくて仕方がないんでしょう。自分自身にさえ嘘をついて、それでも心の奥では助けを求めて叫んでいる。

孤独は俺の胸を指で撫で、小さく笑って立ち上がる。

明日は特別な日、なのでしょう。あなたがまた私と出会わないことを、願っているわ。

ああ、そうだな、ケーキとプレゼントを用意して待っててくれ。

俺が言うと、孤独はまた小さく笑い、そして部屋のカーテンを開いた。それまで抑えられていた陽射しが一気に部屋に入り込み、その眩しさに俺は思わず目を閉じる。次に目を開いた時、俺の目の前に孤独の姿はなく、かわりに窓の向こう側に広がる日曜日の世界の姿があった。

俺はあいつが、孤独が嫌いではない。だが、あいつの言っていたことはきっと真実で、俺は心の奥で自分自身のことさえも騙し生きていこうとしているのだろう。しかし、そうでもしなければ、こんな世界で一人で生きていくことなんてできない。

人は、一人では生きていけない生き物なのかもしれない。誰かと繋がり、誰かに認められ、そうして初めて生を実感できるものなのだ。俺はいずれ、自分自身の孤独に殺されるだろう。

開かれたカーテンの向こう側に広がる、遠い世界を見つめながら、俺は孤独の言っていた言葉を思い出していた。

Happy birthday to いずれ死にゆく者。

明日はきっと、特別な日になるだろう。

のらねこソクラテス

あいつは、小学校低学年の頃に出会ってからずっと、俺のことを見ている。信号機の上や、テーブルの下や、時には電車の吊り革にぶら下がりながら。いつも戯けながら俺を見て笑い、知ったような口を聞くのだ。退屈な野郎だ、と。

今夜は、俺の人生を変えた本の話をしようと思う。

たまには、嘘ではなく、真実の、俺の話をしよう。そんな風に思ったのは、amazonで、とある絵本を見つけたからだ。

“野良猫ソクラテス”というシリーズの絵本。タイトル通り、ソクラテスという名の人間の言葉を話す野良猫が登場する話だ。ソクラテスは、主人公の少年や少年のクラスメイトたちを助け、時には困らせ、友情を育んでいくというもの、だったと思う。いかんせん、もう10年以上前に読んだ本なだけに、内容はうろ覚えだ。

幼少期の頃、俺は、学校の図書室にあったこの絵本が本当に好きだった。ソクラテスは猫であり、それ故に当然のことながら学校へは行かず、普段は何をしているかわからない。だが、時折、退屈しのぎに学校を訪れ、いつもケラケラと笑いながら、主人公たちにちょっかいを出すのだ。

当時、学校に通うことが嫌いだった俺にとって、ソクラテスは憧れの存在だった。アウトローでありながら、仕方がない奴と呆れられながら、それでも子どもたちからは愛され、信頼されていた。ソクラテス自身はいつだって戯けて笑い、知ったような口でいろいろなことを話し、そうして高い木の上から街を見下ろし大きな欠伸をする。ふざけた風に話すが、彼は本当に大切なことを知っていて、主人公たちに、俺に、そのことを教えてくれた。カッコいいと思った。俺も、こんな生き方をしたい、と。

週に一度、授業の中で読書の時間があり、周りのみんなが流行りの“デルトラクエスト”や“かいけつゾロリ”を取り合う中、俺はバラバラに並んだ棚の中からソクラテスシリーズを探し出し、時には同じ物語を何度も読み返した。そして、ソクラテスの真似をして、群れず、知ったような口ぶりで話をし、そしていつも戯けて笑うようになった。

今だってそうだ。俺はいつだって戯けて笑い、知ったような口ぶりで話す。それでも、俺は、ソクラテスにはなれなかった。

ソクラテスは、怒りや悲しみや、そういった負の感情を滅多に出さなかった。その代わりに、ずっとヘラヘラと笑っていたのだ。子どもの頃の俺は、ソクラテスには何の悩みもないのだと思っていた。気ままな野良猫だから、何も悩まず笑ってられるのだ、と。今になって考えると、彼にもきっと、悩みはあったのだと思う。

印象に残っている話がある。“ソクラテスほえる”、というタイトルだったと思うのだが。その話の中で、ソクラテスの親友の魔女が姿を消した時、これまで一切の感情を現さなかった彼が、悲しみにほえたのだ。結局、魔女は見つからず、ソクラテスは数日後にはケロッとして、いつもと同じように笑うようになっていた。子どもたちに心配をかけないように、カッコいい姿であるために、悲しみを笑いの裏に隠して。

以前も書いたことがあるが、俺は、いつからか、怒りや悲しみの感情を上手く感じることが出来なくなってしまっている。それはきっと、ソクラテスに憧れていたからではないかと、そんな風に思うことがある。いつだって、どんな時だって、笑っているような男でありたいと、今だってそう思っている。俺にそう思わせたのは、幼少期の頃に出会ったこの絵本であり、ソクラテスという野良猫である。

しかし、今の俺はどうだ。学校に通っていた頃と変わらず、毎日同じ時間に起き、同じ電車に乗り、会社へ向かい、周りの人間に気を使いながらやりたくもない仕事をし、仕事が終われば家に帰りコンビニ弁当を食べる。思わずため息が溢れ、そして癖のように、楽しくもないのに笑う。今の俺は、気ままな野良猫とは、正反対の人生を歩んでいた。ソクラテスに救いを求めるように、力なく、乾いた声で笑う。すると、彼の声が聞こえるような気がするのだ、退屈な野郎だ、と。

彼の姿を探して外へ出る。彼は二階の屋根の上に寝転がり、俺を見下し笑っていた。

ソクラテス、俺を助けてくれよ。

その退屈な日々は、お前の選んだ道だろう。お前の望んだ道だろう。

そんなこと、言われなくてもわかっている。でも、どうすればいいかわからないんだ。助けてくれよ、あの頃、そうしてくれたように。

ソクラテスは、俺の生き方を変えてくれた。辛い時こそ笑うように、彼のおかげで俺は、そんな生き方が出来るようになった。だけど、今の俺はもう、上手く笑うことさえ出来なくなっていた。感情を上手く感じることも出来ず、それを隠すために笑うことさえ出来なくなった時、俺はどうなってしまうのだろうか。

あの本をもう一度読むことが出来れば、あの頃と同じように、ソクラテスは俺を導いてくれるだろうか。

あの頃と何も変わっちゃいねぇさ、俺も、お前も。だがな、世界やお前を取り巻く環境は変わってる。だから、お前は変わらなきゃならねぇんだ。

変わるために何をどうすればいいのか、それがわからないんだ。お願いだ、俺を見捨てないでくれ。

俺は、救いを求めるように、amazonで見つけたソクラテスシリーズの全巻を注文する。

数日後には、俺の手元にあの頃読んでいた絵本たちが届くだろう。その時、彼はもう一度、俺に道を示してくれるだろうか。

祈るような思いで、俺は彼との再会を待つ。楽しみよりも、不安の方が大きい。もし、10年ぶりに出会ったソクラテスが、俺に何も示してくれなかったなら。その時、俺は人生の指針を一つ失うことになるだろう。

なあ、ソクラテス、もう一度俺のことを助けてくれよ。

ソクラテスはゆっくり立ち上がり軽く体を伸ばすと、何も言わず、いつものように笑うこともせず、夜の闇へと走り去って消えた。

無人島に持って行くもの

無人島に一つだけ何か持っていけるとすれば、何を持って行きますか?

何度も聞いたことのある質問。しかし、それを投げかけてきたのは見知らぬ男だった。

三連休最終日の夜。明日からの仕事のことを考え、憂鬱な気分でコンビニへ向かっていた時のことだ。清潔なスーツに身を包んだ、これまた清潔そうな肌をした中年の男は、いつの間にか俺の前に現れ、そんなことを言ったのだ。最初は何かの宗教か、詐欺か、そんなところだろうと思ったが、しかし、俺はその質問に興味があり、足を止めた。

あなたなら、何を持って行きますか?

質問に質問で返すのは、あまり喜ばれることではないが、しかし、突然見知らぬ相手に不躾な質問を投げかけられたのだ。こちらから質問を投げ返しても悪くはないだろう。男は顎に手を当て、少し考えるようにして応える。

何か火を起こせるもの、ライターか、マッチか、燃料の必要ない虫眼鏡などもいいですね。

いかにも、現実的な回答である。つまらないな、と思ったが、口には出さない。この質問は、きっと、その人間の本質を見抜くためのものなのだろうと思う。彼は、どこまでも冷静に、現実的に物事を考える男なのだろう。そして、こういった人間は無意味なことをしない。つまり、突然、見知らぬ俺に声をかけてきたことにもきっと、何か意図があるはずだ。俺は少し考え、そして、自分が思う、無人島に持って行く物を答えるのだった。

 

照りつける太陽と波の音で、目を覚ます。夜のコンビニへ向かっていたはずだが、いつの間にか俺は、真昼の太陽の下、広い砂浜の上にいた。わけがわからない。立ち上がろうとした俺の手に、何かが当たる。それは、俺があの男に、無人島に一つだけ何かを持って行けるならこれを持って行くと答えた物だった。

と、すると、ここは無人島か。何が目的で、俺を無人島に連れて来たんだ。いや、まだわからない、とにかく島を周ってみよう。俺は、たった一つだけ、元の世界から持って来ることのできた物を手に抱え、そして砂浜を歩き出す。

島を、どれだけ歩いたかはわからない。森に入り、川を見つけたので、そこでとりあえず水分補給は出来た。しかし、今日はそこまでだ。日が暮れる。今日は何月何日だろう。俺が出るはずだった会議は、どうなったのだろう。資料データは俺のパソコンに入っている、次に出社した時、上司に怒られるだろうな。砂浜に座り、水平線の向こうに沈む夕日を眺めながら、そんなことを考える。

どうやらここは、本当に無人島らしい。いや、まだ確証は持てないが、日本ではないことは確かだ。空に広がる満天の星空。その星座の位置から、恐らくここは太平洋上のどこかの島だろう。川が流れているほどで、森の先には山も見える。それなりの広さはありそうだし、動物も生息していそうだ。火を起こす事さえできれば、あとは何とかなるかもしれない。

空に浮かぶ月を見ながら、俺は少し後悔していた。俺も、ライターって言ってればよかったな。一人、呟き、そして脇に置いていたそれに手を伸ばす。それは、高校の卒業アルバムだった。

そう、俺が無人島にたった一つだけ持って行けるならこれを持って来ると言ったものは、高校の卒業アルバムだ。島は、夜でも月明かりでぼんやりと明るい。静かな波の音と虫の声を聞きながら、アルバムを開く。数年ぶりに開いたそこには、懐かしいクラスメイトたちの顔と、丸坊主の頭でヘラヘラと笑うあの頃の俺がいる。

俺が、卒業アルバムを持って行くと答えた時、男は驚いたような表情で、なぜかと聞いた。現実的な考えをする人間には、きっとわからないだろう。俺はただ一言、生きる為に一番必要な物だから、とだけ答えた。

夜は少し冷えるが、まだ我慢できないほどではない。俺は大きな葉っぱに包まり、積んだ砂を枕に横になる。誰が何のために、俺をこの無人島に連れて来たのか。その理由は全くわからない。だが、とにかく俺はここで生き抜く術を見つけるしかないらしい。

俺は目を閉じる前に、もう一度、アルバムを開く。一番後ろのページ、真っ白なページを埋めるように書かれた級友たちからのメッセージの中、控えめな字で書かれた“また会おうね”の文字。それは、ずっと好きだったあの子に書いてもらったメッセージだ。俺はその文字を指でなぞり、ため息をつき、アルバムを閉じた。

まったく、おかしな話だ。どこかもわからない無人島に連れて来られ、食料も寝床もなく、明日からどうやって生きようかという時に、俺は学生時代の思い出に胸を締め付けられている。

だが、人間に必要なものは、そういうことなのだと思う。ライターやナイフや毛布や医療品。無人島で生き抜くために必要な実用的なものは、多くある。それでも、俺がアルバムを選んだ理由は、そこにある。人間はいつだって、過去の思い出を背負いながら生きているのだ。時に、その思い出を糧とし、時にその重さに苦しめられながら。そういった諸々を受け止め、時に受け止めきれずにこぼしながら、歩み続けるのだ。それ故に、人間として生きることができるのだと、俺はそう思う。

“また会おうね”と、彼女がそう書いたのは、単なる社交辞令だったのだろうか。高校を卒業して以来、彼女とは一度も会っていない。

もし、生きて帰ることができたのなら彼女に会いに行こう。真上に見える半分に割れた月を見上げ、俺は思う。

何年先になったって、彼女が結婚していたってかまわない。ずっと伝えることのできなかった思いを、彼女に伝えよう。そんな決意とアルバムを胸に抱き、俺は眠りにつく。

世界のどこかにあるこの島から、同じくこの世界のどこかで生きている彼女に想いを馳せながら。

君の名は

今、とても人気のあるらしい映画『君の名は』

俺も見てみたいのだけれども、みんな見てしまっているので、一緒に見にいく人がいない。一人で行けよと思われるかもしれないが、他の映画はともかくとして『君の名は』を一人で見にいくのは、どうだろう。一人でファミレスの8人席に案内され、西洋の王族のように広いテーブルの端でハンバーグを食べたことのある俺であっても、さすがに一人で『君の名は』は耐えられない。一人で『君の名は』を見に行って、いったい何と入れ替われと言うのだ。ジーパンか?ジーパンと入れ代わればいいのか?俺のはいているジーパンと俺自身が入れ替わったところで、いったいなんだと言うのだ。

さて、そんな『君の名は』のことが気になって仕方のない俺ではあるが、おそらく見ることはないので、自分なりに考えてみることにした。『君の名は』は、男女が入れ替わるお話だろう。だったら俺は、何と入れ替わることが出来たら嬉しいだろうか。

やはり、一番入れ替わりたいのは、女子高生、だ。女子高生になれば、警戒されずに女子高生と触れ合える。これが一番だろう。二番目に入れ替わりたいシマウマも、同じ理由だ。郷に入っては郷に従え、女子高生と仲良くしたければ女子高生に、シマウマと仲良くしたければシマウマになることが一番だ。一緒に写メを撮ったり、部活をしたり、じゃれあったり、ライオンから逃げたりなどしたりできる。

女子高生と入れ替われば、更衣室やお風呂なども、見放題だ。女子高生なので、見放題でもなんの違和感もない。それは、男の永遠のロマンなのだ。『君の名は』本編でも、絶対にそういった描写はあるはず。主人公の彼(彼女)は、入れ替わった時にとりあえず、あかねの湯に行ってるはずだ。そして岩盤浴とか、してるに違いない。

さて、その場合、俺と入れ替わった側の女子高生はといえばだが、もちろん俺と入れ替わることで得もある。PS4とか持ってるので、それをすることなどができる。

さあ、次は、一番入れ替わりたくないもの、だ。それはやっぱり、うんこ、だろう。うんこと入れ替わってしまえば、もう最悪だ。理由は、説明する必要もないだろう。うんこになることも最悪だが、同時に、うんこと入れ替わった自分も生まれることになる。見た目が俺で、中身がうんこ。いや、それは普段とあまり変わりはないか。

うーん、『君の名は』ますます気になってきてしまう。どんなお話なのだろうか。

最後に、一番入れ替わりたいものと、一番入れ替わりたくないものを合わせるとどうなるのか、見てみよう。

女子高生のうんこ。

それはそれで、悪くないように思える辺り、やはり女子高生はすごい。

台風18号の日

昔から台風は好きなんですよ、ワクワクするじゃないですか。

仕事中、隣のデスクに向かって言うと、課長は退屈そうにPCの画面を見つめたまま短く一言、ガキじゃねえんだから、と言った。確かに、全国の配送に関わる我が部署では、交通障害を撒き散らしながら、文字通り威風堂々と日本を通り抜ける台風は迷惑な存在でしかない。しかし、そんな風に実害を被りながらも、俺はやはり台風が嫌いになれないのだ。窮屈な事務所のデスクから、窓の外の黒い雲を見上げ、俺は心のざわめきを感じていた。

いつから好きだったのかは思い出せないが、物心ついた頃から俺は、台風のことが好きだった。学校が休みになるだとか、そんなくだらない理由ではない。なんというか、雲のうねる黒い空や、叫び声のような風の音、その非現実な状況が、俺の胸を騒がせるのだ。台風の日には敢えて外に出て、雨と風を全身で感じる。その時、俺は世界と一体化したような、そんな気分になるのだ。

そしてそれと同時に、ずっと昔の、ある台風の日のことを思い出す。あれは、俺が小学校に上がった年、今日と同じ、台風18号が接近していた日のことだ。

その日は朝から、不気味なほどに暗い日だった。空には黒い雲がうねるように流れ、空気は冷たく、轟々とした風が窓を揺らす。そんな中、授業を終え、さあ帰ろうという時に、これまでなんとか耐え続けていた黒い空のダムが決壊した。突然、世界の終わりのような土砂降りの雨が降り出し、追い打ちをかけるように雷が鳴り響く。教師たちが慌ただしく靴箱に走り、帰ろうとする生徒たちを校舎へ押し込めた。

午後4時とは思えない薄暗い校舎内に押し込められた子どもたちは、それぞれ階段に座り、窓から見える世界の終わりを眺めていた。そして当時の俺も、その中の一人だった。

最初はワクワクしていた俺だったが、時間が経つにつれ強くなる雨と暗くなる空、泣き出す子までいる状況を見て、さすがに不安になり始める。このまま帰れないんじゃないか、誰かが言った。雨の音が嫌に大きく聞こえる。一際大きな雷が鳴り響き、空がさらに暗くなる。

俺は、泣いていた。周りにいた子どもたちの半分以上が、同じように泣いていた。その時のことを、今でも覚えている。俺にハンカチを差し出してくれた女の子が、いた。その子は顔も見たことのない子で、当然話したこともなく、なぜみんな泣いている中で、俺にだけハンカチを差し出してくれたのか、わからなかった。自分も今にも泣きそうな顔をしながら、泣いたらダメ、と、そう言って俺にハンカチを差し出してくれたのだ。

今考えても、あの頃の俺はどうしようもなくかっこ悪かったと思う。その時、俺は、ハンカチを差し出してくれた彼女の手を払ったのだ。俺は、かっこ悪いと思われたくなかったのだ。泣いているくせに、女の子にハンカチを借りるなんてかっこ悪いことをしたくなかったのだ。それから、ずっと下を向いてうずくまっていたので、彼女がどうなったのかはわからない。雨が収まり、教師の声で顔を上げた時、彼女の姿はなく、小さなハンカチだけがその場に落ちていた。

今でも、その日のことを思い出す。今にも泣き出しそうな彼女の顔。泣いたらダメと言った震える声。俺が払った、小さな手。

 

台風18号は、依然として勢力を保ったまま日本海上を北上中。今夜から明日未明にかけて関東地方へ上陸……雨と風の音に紛れ、カーラジオの声が途切れ途切れ聞こえる。この台風の夜の中、海沿いの道を走る車は一台だけだ。ワイパーを全開にしても前はほとんど見えない。猛烈な雨とうねる黒雲が、ヘッドライトに照らし出されては消える。

大荒れの海を眺めることのできる、小高い丘の展望台。その駐車場に車を停め、俺はその時を待つ。あの頃と同じように、窓の外に映る世界の終わりを見つめながら。すぐ近くで空が光り、轟音が響き渡る。カーラジオから流れる音が雑音に変わり、展望台の街灯が消えた。瞬間、あれだけ荒れ狂っていた雨と風が止まる。

まるで、その場だけ、すべての時が止まったような、そんな奇妙な感覚。俺は車のドアを開け、外へ出た。冷たく湿った空気が俺の全身を包む。遠く海の先には嵐が見えるが、この展望台の周辺だけは穏やかな時間が流れていた。消えていた展望台の街灯が数回点滅した後、ぼんやりと明かりを灯す。その下に、あの頃の彼女がいた。あの頃と同じように、今にも泣き出しそうな顔をして、遠くの嵐を見つめていた。俺は彼女に歩み寄り、そして、あの日からずっと大切に持ち続けていたハンカチを差し出す。

泣いたらダメだよ。俺が言うと、彼女は驚いたように顔を上げ、そして涙を流して小さく笑う。俺は、台風の目から溢れた涙を拭き取り、彼女の小さな手にハンカチを返した。彼女はそのハンカチを受け取り、小さく首を横に振ると、ハンカチを俺の瞳に当てた。また、泣いちまってたのか、俺は。まったく、いつになってもかっこ悪いな。照れ隠しに笑う俺を、彼女は小さな身体で抱き寄せ、そして言うのだった。もう大丈夫、と。

激しい雨と風が俺の身体に降りかかる。俺は海に向かって腕を広げ、叫び声を上げる。その叫びはすぐに、猛烈な風に掻き消される。何度掻き消されても、俺は叫び続けた。この台風の夜に、世界と一体化したような、そんな気分で。

 俺にはもう、帰る場所もなく、涙を拭ってくれる人もいない。だけど俺は、必死に涙を堪え、先の見えない嵐の中を進み続けるのだ。いつか、あの頃と同じように、ハンカチを差し出してくれる人が現れることを信じて。

その時、俺は今度こそ、その小さな手を握り返すことが出来るだろうか。

もう大丈夫。

彼女の小さな声は、吹き荒れる風雨に巻き込まれ、消えていった。