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かきかたの本

書き方の練習

ため息をつく

ため息をつくと、幸せが逃げる。

どこの誰が言い出したことなのかはわからないが、この話を聞いたことがある人は少なくないだろう。きっとどこかの誰かが、ため息をついた誰かを見て、そんなことを言ったのだろう。自分が言われると、次は誰かに言ってみたくなる。この言葉に、そんな不思議な魅力があるのは事実で、実際に俺も何度も口にしたことがある。そういった言葉は、この世界に幾つか存在し、彼らは生まれたその日からずっと、口から口へとふわふわと世界を飛び回る。生み出した当人は、自分が何気なく呟いた適当な言葉が、世界中の多くの人間が知っている言い伝えのようなものになるなんて、夢にも思わなかっただろう。

似たような話で、夜に口笛を吹くと蛇が出るというものがある。俺は子どもの頃に親に言われたこの言葉を信じ、蛇を呼び出すために夜に口笛を吹き続けた。おそらく、夜に口笛を吹くとうるさくて迷惑になるので、怖いものが出るという嘘で子どもに口笛を吹くことを止めさせる、そのためのものなのだろうが、いかんせん、あの頃の俺はアホだった。その結果、蛇こそ現れなかったが、口笛はそこそこ上手くなり、当然のごとく俺はアホのまま大人になった。

さて、ため息をつくと幸せが逃げるらしいが、逃げた幸せは、いったいどこに行くのだろうか。俺の頭はプラスチックで出来ており、その中身は空洞になっているので、俺が私生活の中でため息をつくことはまずない。故に、なかなか実証する機会がなかったのだが、ここ最近、引越し準備に追われ好きなことができておらず、少しだけ疲れていたのかもしれない。ふとした拍子に、そいつは俺の前に現れた。

漫画本とアルバムと写真を入れたダンボールの蓋をガムテープで閉じ、スペースの半分がダンボール箱で埋められた部屋を見る。まだ、やるべきことの半分も終わっていない。途方もない作業の多さに、俺は深くため息をついた。ポカリを飲もう。そう思い部屋の出口を見ると、そこにあいつは居た。何だお前は。俺が言うと、私はあなたの幸せ、と、あいつは応えた。

とりあえず俺は、キッチンへ向かい、冷蔵庫からポカリのボトルを取り、再び部屋へ向かう。あいつは、俺がさっき閉じたばかりのダンボール箱を開け、そこからアルバムを取り出し眺めていた。俺はあいつの手からアルバムを奪い、箱に詰め、再び封をする。お前が俺の幸せなら、俺はもう、幸せになれないってことなのか。新しいダンボールを組み立てながら、聞く。知らないわ、私はあなたの幸せだけれど、今はもうあなたから切り離されてしまったもの。そう言って、あいつは俺のポカリを一口飲んだ。

それから俺は、少しずつ、引越しの準備を進めていった。その間、あいつはずっと部屋の角のダンボールの上に座り、アルバムのページをペラペラとめくり、時折、ふふっと小さく笑ったりしていた。何度箱に戻しても、すぐに箱を開けて取り出すので、俺はもう、アルバムの箱詰めは後回しにし、他の物を優先的に片付けていった。そんなものを見て楽しいのか、と聞くと、楽しいわ、私はあなただものと応える。よくわからないが、どうやらあいつは俺らしい。部屋によくわからないものがいるにも関わらず、俺は不思議と気にならなかった。それどころか、あいつが部屋の片隅にいることで、どこか懐かしい安心感のようなものさえ感じた。

ようやく作業がひと段落ついた頃、窓から見える空は橙色に染まっていた。俺はあいつの隣に座り、ぬるくなったポカリを飲み干した。ため息をつくと幸せが逃げるらしいが、お前は逃げないのか?俺が聞くと、あいつは小さく頷き、アルバムを見たまま、逃げたくなんてないわ、と言った。でも、切り離されてしまったから、もう戻ることは出来ないの。そう言ってアルバムを閉じ、立ち上がる。途端に、俺の胸に寂しさが込み上げてくる。

だったら、だったらお前はどうなるんだ。

どうにもならないわ。ただ、世界を漂うだけの存在になるの。私はあなたの幸せであって、それ以外の何者でもないもの。

一度切り離されてしまった俺の幸せは、もう二度と戻ることは出来ない。俺はこれまで、何でもない幸せな日々が当たり前だと思っていた。目に見えないものだから。こんな風に、別れる日が来るなんて思ってもなかったから。

行かないでくれ。別に俺の中に戻らなくたっていい。ただ、そばにいて、思い出させてくれるだけでいい。

みっともないなと、自分でも思う。それでも俺はあいつにすがった。しかし、同時にわかってもいた。それがどうしようもないことであること。何もかもが遅すぎたのだ。あいつは情けなくすがりつく俺を優しく抱き寄せ、耳元で小さく呟いた。私は幸せだったわ、と。

それまで俺の中にあったあいつは、今は俺の目の前にいる。こんなにも近くにいるのに、どうしようもなく遠い。それは、過去や思い出や、そういった物とよく似ていた。

私の役目は終わったから、私がいると、あなたは新しい幸せを見つけることが出来ないの。

窓から差し込む橙色の光が、俺たちを照らす。ありがとう、と、俺が言うと、あいつは俺の背中を撫でながら、可笑しそうに笑う。私はあなたなのに、それはおかしいわ、と。

また、会えるだろうか。わかりきった問いを投げかける。あいつは小さく首を横に振り、最後に話が出来てよかった、と言った。

夕焼けの街を歩く。この街並みも、子どもの頃に比べると随分と変わった。遊び場にしていた雑木林と畑は、今や住宅地になり、砂利道は舗装された道路に、秘密基地を作ったスクラップ場は大型ゲームセンターになった。それでも、不思議と、空気と風は昔のままだ。

そうして、俺は考える。すれ違う人、それぞれに人生があり、彼らもどこかで古い幸せを切り離し、新しい幸せとともに歩いているのだと。切り離された幸せたちは、形を成すことも、集まることもせず、ただこの世界のどこかを漂っている。

夕焼けの街。畑の向こうに見える雑木林。砂利道を歩くあいつの横を、自転車に乗ったあの日の俺が通り抜けて行く。そんな光景が浮かび、俺は立ち止まる。夕陽が沈む。空は深青に変わりつつあった。

ため息をつくと幸せが逃げる。逃げた幸せは、もう二度と、戻ってはこない。しかし、消えてしまったわけではない。あの楽しかった日々の記憶を抱き続け、時折、ふふっと笑ったりしながら、一人、この世界のどこかを漂っている。