読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

かきかたの本

書き方の練習

七夕の夜

七夕の夜には、ジャックダニエルを飲む。

酒は好きじゃない、特にウイスキーは。あの口に広がる、正露丸を噛み砕いたような不快感。喉が熱くなり奥から込み上げてくるものを飲み込むと、しばらくして軽い頭痛と眩暈がやってくる。気分が悪い。グラスをテーブルに置き、目を閉じる。酒は好きじゃない、特にウイスキーは。しかし俺は、ジャックダニエルを飲む。あの七夕の夜、あいつのことを思い出しながら。

その夏、俺は、日本海が一望できる小高い丘に建つ民宿に身を置いていた。漁師であり料理人である無口で頑固な親父さんと、人当たりが良くちゃきちゃきと動く奥さんの2人で切り盛りされる居酒屋兼用の民宿。その二階の一室を、俺は借りていた。2人の孫である女学生がたまに手伝いに来ており、彼女は暇を見つけると俺の部屋に入り込み、星の話を聞きたがるので、2人で朝まで星を眺めながら話したこともあった。

俺は、死に場所を探していた。仕事を辞め、なけなしの貯金を全額下ろし、二本の足でいろいろな物を見ながら歩いた。腹が減ると何かを食べ、眠りたくなると外でも眠った。自由がどんなものなのか、それを知りたくて、ただ思うがままに時間を生きた。その結果、数ヶ月で貯金はほとんど尽き、ふらふらと辿り着いたこの、世界の果てのような静かな時の流れる町で、誰にも知られずに死のうと、そんなことを考えていた。

あいつと出会ったのは、そんな8月9日の夕暮れ時。ちょうど、七夕祭りの日のことだった。

その日はいつものように昼に起き、少し本を読み、それから夕方までまた眠って過ごした。遠くに聞こえる祭囃子で目が覚め、今日が七夕祭りだったことを思い出す。そういえば、女学生にしつこく誘われていたのだった。時計を見ると時刻は18時を少し過ぎたところ。まだ少し余裕がある。煙草を吸おう。彼女の前で吸うとまた、健康に悪い、などともっともな言葉でどやされる。

部屋を出て、ベランダへ向かうと、そこで、見慣れない男と出会った。夜空のように澄んだ黒の髪に、星のような深い藍の目をした20代くらいの男。そいつは俺を見もせずに、見たこともない銘柄の煙草を吸い、橙色の空に不思議な匂いの煙を吐き出していた。

狭いベランダだ。俺はそいつの隣に並び、自分の煙草に火を付けようとする、が、そこでライターを部屋に忘れて来たことに気づく。舌打ちを一つ、咥えた煙草を口から離したとき、そいつは小さく笑って、マッチを差し出してきた。茶色地に白字でホテル“デネブ”と書かれた、なんとも古臭いマッチだったが、火がつけば問題ない。俺は何も言わず手で礼をして、マッチを受け取り、火をつけた。懐かしい音とともに、リンの焦げる匂いが一瞬広がる。煙を吸うと、不思議な味がした。

あんた、そこに部屋を借りてるんだろ。そいつは相も変わらず俺の顔を見ずに言う。ああ、お前は?俺が聞くとそいつは、あんたと同じさ、と言った。石炭袋で落っこちて、死に場所を探してふらふらと、さ。そいつは初めて俺の顔を見て、ケケッといかにも愉快そうに笑った。

隣の部屋は空き部屋だったはずだ。とすると、こいつは新しい同居人ってことか。おかしな男だが、嫌な気はしない。不思議な空気を持っていた。

今日は七夕祭りらしい、お前も行くのか。俺が言うと、あいつは町の方を見て、小さく、いや、と呟いた。そして、今夜はきっと星がよく見える。と、そんなことを言った。

こんなところにいたんですね。浴衣を着た女学生が、いかにも不快そうな顔で、煙草を吸う俺のことを見ながら言った。もう時間か。俺は慌てて煙草の火を消し、すぐ準備する、と言う。となりであいつが、手をひらひらとさせながら、ケケッと笑った。

あの人、お知り合いですか?祭囃子へ向かって歩きながら、女学生が俺に問う。意外だった。彼女は知っているものと思っていたが。たぶん、新しい同居人だと思うけど。俺が答えると、彼女は首を傾げ、そんな話、聞いてませんけど、とそんなことを言った。だったらあいつは何者なのだろうか。泥棒だったらどうしましょうか。いや、それはないだろう。どうしてです?俺の前に立ち、彼女は言った。長い髪と紺色の浴衣が揺れる。俺は一瞬足を止め、彼女の目を見つめ、それからすぐに目を逸らし、再び歩き出しながら答える。あいつは、石炭袋で落っこちたらしい、と。

祭りは、とても良かった。人も、飾りも、出店も、全てが淡い光に包まれ、まるで夢の中を歩いているような、そんな気分になる。思えば、祭りに来たのは随分と久しぶりのことだった。子どもの頃は、その特別な行事が大好きだった。夢のような不思議な空気の中、俺の手を握る親父の大きな手。人々の話し声、足音、祭囃子。砂で汚れたスニーカー、食べきれなかったりんご飴。そんなことを考えていると女学生が不意に俺の手を取った。驚いた顔をしていたのだろう、女学生は楽しそうに笑い、そうして俺の手を引いて駆け出した。人々の声が、光の泡のように生まれては後ろへ流れて行く。ぼんやりとした景色の中で、前を行く彼女の紺色の浴衣だけがはっきりと見えていた。

帰り道。すっかり日の暮れた海沿いの道を、俺たちは仮の故郷へ向かって歩く。潮の匂い、雪駄の足音、涼しい夜風。懐かしい空気は、遠く離れた見知らぬ町でも変わらず、俺の鼻の奥を突く。世界の終わりは、きっとこんな穏やかな日に、訪れるのだろう、そんなことを考える。緩やかなまどろみの中での眠りのように、重く、心地よく、ゆっくりと、夕日とともに沈むように。

寂しいな、と、前を歩く彼女が言った。楽しいけど、寂しい。その気持ちは、よくわかる。祭りの帰り道というものは、そういうものだ。淡い光の中から出てしまうと、そこはもう、現実と孤独の世界だ。夢は覚める。楽しい時間には必ず終わりがある。

一階の居酒屋は、大盛況だった。俺は邪魔をしないように裏の階段から二階へ上がり、部屋へ戻ろうとして、ベランダに人影があることに気づく。あいつは、夕方と同じように、空を見上げて煙を吐いていた。

 星はどうだ?隣に並び、俺が言うと、あいつは何も言わずに夜空を指差した。本当に、綺麗な星空だった。雲一つない澄んだ夜空に輝く星々と、その間を流れる天の川がはっきりと見えていた。俺たちは何も言わず、ただぼうっと、煙を吐き出しながら、その美しい星空を2人、見上げていた。

あんた、どうして死に場所を探してんだ。不意に、あいつが言った。その手には、いつの間にかウイスキージャックダニエルの瓶とグラスが握られている。どうしてわかるんだ?俺が聞くと、あいつはまたケケッと笑い、ウイスキーの蓋を開けながら、ここにいるってことはそういうことだろう?と、言った。

七夕の夜にはジャックダニエルを飲むんだ。グラス半分に注いだぬるいウイスキーを一気に飲み干し、あいつは顔をしかめながらそんなことを言った。星の川のほとりで、遠くの岸を見ながらさ。

なんでジャックダニエルなんだ?

彼女が、好きだったんだよ。だからさ。きっと彼女も向こう岸で飲んでるはずさ。

恋人か?

大切な人さ。今は、会えないけどな。そう言ってあいつは、遠くの誰かに向けるように、グラスを空へ掲げた。

なあ、知ってるか。星ってのは、少しずつ動き続けてるんだ。だから、生きていればいつかきっと会える。途方もない時間がかかるかもしれないが、きっと、また、必ず、この宇宙のどこかで。

あいつは再びグラスにウイスキーを注ぎ、今度はそれを俺に渡した。

あんたが何を思って死に場を探してるかは知らねえが、どうだ、考えてみろよ、あんたは今、どこにいる?ここはどこだ?あんたは誰だ?

ここがどこで、俺が誰なのか。あいつの深い藍の瞳に、心を見透かされているような気がする。俺はグラスのジャックダニエルを一気に飲み干す。ぬるい苦味が口に広がり、喉が一気に熱くなる。

ここは、どこでもないし、俺は誰でもない。

そう、あんたは死んだんだ、この町で、さ。ケケッと笑い、あいつはボトルのままウイスキーを一口飲んだ。

今夜はうまい酒が飲めた。あんたのお陰だ。

時刻はもうすぐ0時を迎えようとしていた。遠くの祭囃子もすっかり聞こえなくなり、波の音と俺たちの話し声だけが星の輝く夜空へ吸い込まれていく。

なあ、お前、名前は?俺が聞くと、あいつは俺に背を向け、ドアを開き、名乗る必要はないさ、と言った。それより、お待ちかねだぜ?同じようにまたケケッと笑い、あいつは空き部屋ではなく裏の階段へと向かって行った。あいつを追おうとベランダを出た俺は、扉の前で居心地悪そうに立つ女学生の姿を見つけ、足を止めた。浴衣から、シャツとジーンズ姿に着替えた彼女は、今にも泣き出しそうな顔で俺を見ていた。

今夜は星がよく見える。俺が言うと、彼女は恐る恐るベランダへ出て、夜空を見上げる。天の川を挟んで見える織姫と彦星の輝きが、少し近づいているように見える。

 どこかへ、行っちゃうんですか。彼女が震える声で言う。俺は何も言わず、煙草に火を付ける。彼女はわざとらしく咳をし、健康に悪いですよ、と言った。

なに、生きていればまた会えるさ。夜空の星だって、少しずつ動いてるらしいからな。

ちゃんと、生きてくれますか?

ああ、生きるさ。俺が答えると、彼女は俺の胸に顔を埋めるようにして、その小さな体で俺のことを抱きしめた。そして、小さく、約束ですよ、とそう言った。

俺は彼女の背中に腕を回し、ああ、約束だ。と、そう答えた。

 

それから何年もの月日が流れ、今、俺は新たな地で働きながらなんとか生きている。そう、ちゃんと、生きている。あれ以来、あの民宿には一度も行っていない。当然、彼女と会うこともない。

しかし、いまだに俺は七夕の夜にはジャックダニエルを飲み、そしてあの夜の夢のような時間を思い出すのだ。

夜空に輝く織姫と彦星は、あの時よりも更に近づいているように見える。俺は空へグラスを掲げ、ぬるいジャックダニエルを一気に飲み干した。

俺と彼女はいずれ、どこかでまた出会うだろう。たとえこの広い宇宙の中で離れ離れだったとしても、生きていれば、いつか必ず、どこかで。

サザンクロスは冬の星座だ。

もう少しだけ、この世界で生きていこう。