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かきかたの本

書き方の練習

雑巾をしぼる

 引越しをして、部屋がフローリングになったので、掃除の際に、これまではすることのなかった部屋の床を雑巾がけするという行為が追加された。

ズレたテーブルを戻し、漫画本を本棚に並べ直し、脱ぎっぱなしの部屋着を気持ち程度に畳んで椅子の上に置く。これだけで俺の部屋の整理は終わりだ。あとは床の埃を箒で掃き、それから待ちに待った雑巾がけである。学生時代以来、約4年ぶりの雑巾がけであった。

が、当然の事ながら、新築数ヶ月で1人の男が暮らしているだけの部屋の床が学校の教室の床ほど汚れているはずもない。久しぶりの雑巾がけは、シャー芯を引きずって出来たであろう芸術的な線や、いつの間にか存在していた謎の黒ズミや、気になるあの子のものかもしれない長い髪の毛や、黒板の溝を拭いた奴が落とした虹色のチョークの粉に悩まされることもなく、あっという間に終わってしまった。あの頃に戻れると期待していただけあって、少し肩透かしを食らった気分ではあったが、掃除というこの上なく面倒な行為が早く終わるに越したことはない。俺は綺麗になった床を誇らしげに確認し、足跡をつけないようつま先歩きで部屋を出た。

ゾウのキンタマをしぼったことがあるのか。

使用した雑巾を洗いながら、俺は、そんなくだらない言葉を思い出していた。小学生の頃に流行った、くだらない揚げ足取りの遊びだ。

雑巾をしぼったことがあるか、と聞き、あると答えると、ゾウのキンタマをしぼったことがあるのかと言い、ないと答えると、雑巾をしぼったことがないなんてありえないと言う。本当にくだらない、ただ単に相手に苛立ちを与えるだけの遊びである。小学生の頃は、こういったくだらないものがよく流行った。

雑巾をしぼったことがある?

理科、ちゃんと勉強してる?

ねえ、ちゃんとお風呂入ってる?

まったく、くだらない。雑巾をしぼり、俺は思わず、ふふっと笑った。

そもそも、だ、ゾウのキンタマをしぼるなんてことを、実行した人間は存在するのだろうか。いくら温厚な性格のゾウであっても、さすがにキンタマをしぼられると怒るだろう。怒ったゾウを前に、人間は余りに非力である。たとえ、弱点であるキンタマを握っていたとしても、だ。鞠玉のようにポンと蹴飛ばされてお終いだ。そうまでして、ゾウのキンタマをしぼることに、一体なんの意味があるというのだ。得られるものと言えば、せいぜい、スリルと、“ゾウのキンタマをしぼったことがある人”という称号だけである。リスクに対してのリターンがあまりに小さすぎる。

しかし、そこまで考えが至らないのがバカな小学生である。いや、それは当然の事である。単なる言葉遊びなのだ。真面目に考える方がむしろ、バカなのだろう。得意げにこのくだらない質問を投げかける奴も、理不尽にバカにされたことにムキになって怒る奴も、どちらもバカである。そして、悲しいかな、あの頃の俺も、そんなバカな小学生の一人だった。

2005年。夏休みを利用し、一路、南アフリカへ飛んだ俺は、ケープタウンで一夜を過ごした後、カパマ私営動物保護区へ入った。目的は、もちろんアフリカゾウだ。過酷な道中で、通訳がマラリアに侵され死んだ。言葉は通じなかったが、俺の目的に共感してくれていた案内人のティンは、しっかりとその役目を果たしてくれた。

ジープに乗り、広大なサバンナを進むこと2日目。夕暮れの陽炎の中、俺たちは数頭のアフリカゾウの群れと遭遇した。逆光に黒く輝く影は、雄大で力強く、本物の命の強さを放っているように見えた。日が暮れる、決行は明日の朝にしよう。ティンが言った。幾つもの死線を越え、俺とティンは言葉は無くとも心で会話することが出来るようになっていた。 

昼間の地獄のような暑さとは打って変わり、サバンナの夜は冷え込む。俺たちは毛布に包まり、満天の星空を眺めていた。なあ、なぜお前はゾウのキンタマをしぼりたいんだ。ティンが聞く。俺は小さく笑い、意地さ、と応えた。まったく、くだらない意地で、地球の反対側まで来ちまったもんだ。決行は明日。俺は、震えていた。寒さにではない、怖かったのだ。いざ、目にした象の群れ。彼らの生命の強さを前に、俺のくだらない意地は本当に、小さすぎた。ティンが俺の背を叩く。彼もまた、小さく震えていた。

夜が明けると同時に、俺はティンの声で目を覚ます。ティンは興奮した様子で象の群れを指差していた。俺は寝ぼけ眼のまま、手渡された双眼鏡を覗き込む。そして、一気に目が覚めた。

ライオンだ。二頭のメスライオンが、アフリカゾウの子どもを襲っていたのだ。素早い動きで子ゾウに襲いかかるライオンと、子を守る為に吼える数頭の大人のゾウ。まさに、死闘であった。ティンがジープのエンジンをかける。あの興奮状態の群れに突っ込むのは危険すぎる。止めようとした俺に対し、ティンが叫んだ。チャンスは今日しかないんだ!!確かに、ジープの燃料も水も尽きかけており、滞在できるのは今日が最後だった。俺はティンを見つめ、そして、覚悟を決めて頷いた。

砂煙を上げ、走るジープ。 その先には、ライオンと死闘を繰り広げるアフリカゾウの群れ。俺たちは、群れの中で一番大きな雄ゾウへターゲットを絞り、その真後ろへジープを停めた。ゾウはライオンに気を取られている。俺は荷台から飛び降り、ゾウの股座へ飛び込んだ。

一瞬、一瞬だった。時がゆっくりと流れ、周りから音が消える。いつ死んでもおかしくない状況ではあるが、俺の心は落ち着き、ゆっくりとした鼓動を響かせる。目の前に、巨大な生命の象徴が現れる。ああ、これが本物の、ゾウのキンタマか。俺は大きく息を吸い、キンタマを両腕で抱え、そして、思いっきりしぼった。

パオーン

ゾウの叫びのような声が響き渡り、ゆっくりと流れていた時が再び動き出す。ライオンに気を取られていた雄ゾウの目がこちらを向く。その目は怒りに満ち溢れていた。俺が駆け出すと同時に、先ほどまで俺の立っていた場所に巨大な牙が突き刺さる。あと一瞬遅ければ、死んでいた。いや、次の瞬間に死んでもおかしくない。俺は死に物狂いで走り、ジープの荷台に飛び乗った。と、同時に、ティンが思い切りアクセルを踏み込んだ。

ジープの荷台に仰向けに寝転がり、空に浮かぶ雲が後ろへ流れていく様を見上げる。腕も足もちゃんと2本ずつ付いている。生きてる。俺は、生きてるぞ。自然と笑いが溢れる。運転席に座るティンも声を上げて笑っていた。起き上がり、後ろを振り向くと、はるか遠くにアフリカゾウの群れが見えた。俺は両腕を空に掲げ、そして雄叫びを上げた。広大なサバンナに、俺たちの雄叫びと笑い声が、いつまでも響き渡っていた。

数日後、帰国するとほぼ同時に新学期が始まった。休みのほとんどを南アフリカで過ごしていた俺は、夏休みの宿題をまったくやっておらず、結果、罰として居残り掃除をさせられることとなった。

雑巾をしぼったことはある?

頭の悪い級友が、ニヤニヤしながら、何十回目にもなる質問を俺に投げかける。俺は洗った雑巾を干し棚にかけながら、小さく笑って答えたんだ。

もちろんさ。

知ってるか、ゾウのキンタマってのは、あったかいんだぜ?