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かきかたの本

書き方の練習

8月31日

夏の終わり。涼しく心地いい風と、静かなひぐらしの声に乗せて、どこからか、秋の匂いがする。俺はこの、夏と秋の間の、ほんの一瞬の季節が好きだ。

山中にある静かな墓園。数年前に開かれたそこには、すでに多くの人間が眠っている。先祖を大切にするような、立派な信仰心は持ち合わせていないが(と言っても、その墓には一人しか入っていないが)墓地特有のあの厳かな空気感が好きで、俺はよくその場所を訪れる。訪れる人々は皆、眠っている人間を起こさないように、静かな声で話し、そして昔を思い出すように手を合わせ、目を閉じる。蝉や鳥さえも、どこか控え目に鳴いているように思える不思議な空気感は、俺の心を落ち着かせた。

そんな、この世とあの世の境目のような、現実世界の喧騒から少し離れた場所で、山々を眺めながら澄んだ空気を胸いっぱいに吸い込む。そうすることで、誰にも何にも邪魔されず、自分を、少し離れた場所から見直すことが出来る。自分が多くの物を見失いかけていることに気づくことが出来る。人生において、そういった時間は大切だ。吸い込む空気に、懐かしさが混じる。もう、夏が終わるらしい。

墓園を抜け、しばらく山を登った場所に、小さな観光果樹園がある。今年の春先に、行き先もなく車を走らせていた時にたまたま見つけたその場所は、今では俺の一番のお気に入りの場所になっている。やたらと広いガラガラの駐車場に車を止め、コーヒーを飲むバイク乗りたちを横目に、薄れた観光マップを見る。果樹園、芝生広場、バーベキュー場、芋畑、ジャングルジム、展望台。この場所をこれまでに、何度か訪れたが、俺は未だに、芝生広場とジャングルジムを見たことがない。

まあいい、俺がここに来る目的は一つだ。分かれ道を、右側、展望台と書かれた看板の向く方へ向かって歩き出す。急な階段を上がり、ゆるい坂道に入ると、木々が太陽の光を遮り、体感温度が一気に下がる。階段を上って少し汗ばんだ頬を、冷たい風が心地よく撫でる。雑に舗装された山道を進みながら、俺は今年の夏のことを考えていた。

遠くに、牛の鳴く声が聞こえる。四方からは、夏の終わりを惜しむように鳴く蝉の声が響き、木々の間から差し込む木漏れ日は、まるで万華鏡のように一瞬一瞬の内に形を変えながら、俺の歩く道を照らしていた。夏が時折見せる、この幻のような景色は、俺の心に漠然とした不安を落とす。

今思うと、その不安は昔からずっと感じていたもののような気がする。真夏の昼間、虫網を手に走り回っていた頃。ふと、足を止めると、空に浮かぶ雲は流れを止め、風も止み、蝉の声だけが異様に大きく聞こえる。まるで、夏という名の無機質でどこまでも広い部屋の中に閉じ込められたような、そんな漠然とした不安。夏に飲み込まれそうになる、と言えばいいのだろうか。とにかく、恐怖とは別の不安を感じ、その度に俺は来た道を走って帰り、家の近くまで来た時にようやく、町を歩く人々や道路を走る車を見て安堵していた。振り返ると、遠くアスファルトの道に陽炎がたち、そいつはまるで、その閉じ込められた夏の空間から俺をじっと見つめているようにも見えたのだ。

そんなことを思いながら歩き続け、ようやく俺は目的の展望台へとたどり着いた。屋根もベンチも無く、展望台と呼ぶにはあまりにお粗末に思えるが、それでもここは俺の一番好きな場所だ。手すりに手をつき、景色を眺める。左手には深くどこまでも広がる緑の山々が、右手には遠くを流れる一級河川が輝き、その周りに家や道路が小さく見える。大きく息を吸い、空を見上げると、視界の全てが空の青に変わった。太陽がジリジリと俺の肌を焼く感覚が伝わる。実は夏は終わらないんじゃないか、そんな気さえしてきた。

また来たのね。

ふと、そんな声がして、俺は視界を戻す。どこまでも広がる夏の景色の中、いつの間にかそいつは、俺の横に立っていた。ああ、今日はお前に別れを言いに来た。俺が言うとそいつは小さく笑い、そう、とだけ言った。

そいつと出会ったのは、7月の中頃、初めてこの展望台まで登った時のことだ。そいつは今と同じように、いつの間にか俺の隣に居て、そして自分のことを、夏と名乗った。

 この夏、俺は何度かこの展望台を訪れ、そして彼女と他愛のない話をして時間を潰した。場所のせいか、暑さのせいか、彼女と過ごす時間はまるで、水の中で目を開いた時のような不鮮明で、幻想的で、現実とは違う不思議な時間だった。

 律儀な人ね、わざわざ別れを言いに来た人は、あなたがはじめてよ。遠くを眺めながら言う彼女の髪を、風が揺らす。夏が終われば、君はどうするんだ。俺が聞くと、彼女は笑い、返す。おかしな人ね、もう答えを言っているじゃない。私は夏よ、夏が終われば私も終わる、それだけよ、と。

冷たい秋の風が俺たちの間を通り抜け、木々を揺らす。寒いわ、と、隣で彼女が言った。

知ってるか、8月はもともと、30日までしかなかったんだ。俺は展望台の手すりに背をもたれかけ、彼女を見ながら言う。大昔、夏に恋をしたバカな男が、神に言ったんだ。彼女に別れを告げるための日を作ってくれ、とな。最初、神はふざけたことを言うなと一蹴したんだが、あまりに男が熱心に頼み込むもんで、最後は根負けして、そして1日だけ、8月をはみ出させたんだ。それが今日、8月31日さ。彼女はいつものように、大して興味もなさそうな風に俺の話を聞き、そして、素敵ね、とだけ言った。

見て、夏が終わるわ。彼女が、沈む夕日を指差し、言う。私、この瞬間が一番好きなの。今日も楽しかった、もう少し遊びたかったけれど、それはまた明日ね、って、そんな風に考えながら帰るの。

なあ、また来年もここに来れば会えるのかな。

俺の問いに、彼女は首を横に振った。夏は毎年来るけれど、今年の夏は私だけよ。そうだろうな、とは思っていた。そして、覚悟も。

もう少し。遠く、沈む夕日を見つめながら、彼女は小さくそんなことを言った。俺は、そんな彼女を、抱きしめる。

太陽が沈む。8月31日が、夏が、終わろうとしていた。

ダメよ、ここから先には私は行けない。彼女が俺の手を解き、そして手のひらで俺の胸を押す。嫌だ、と俺は言い、その手を掴む。一瞬、最後の輝きを放ち、太陽は遠く地平線の果てに消える。と、同時に、その果てから黒い波が押し寄せて来る。ああ、あれがたぶん、夏の終わりなのだろう。

離して、このままだと本当にあなたまで。抵抗する夏をもう一度抱き寄せ、俺はその唇にキスをした。その瞬間、俺の頭の中に、夏の記憶が流れ込んで来る。

太陽、空、雲、蝉の声、海、砂浜、陽炎……色々なものが頭を駆け抜け、そして最後、俺の前には驚いた顔で俺を見つめる夏の姿があった。

黒い波は、山々と、川と、町と、車と、人々と、蝉と、鳥と、全てを飲み込み、もう俺たちの足元にまで迫っている。夏は頬を赤く染め、そして、本当にバカな人、と言った。

待っていれば、来年も夏は来るのよ?

でも、今年の夏は君だけなんだろう?

黒い波は、今にも俺たちを飲み込もうとしている。世界のほとんどが、もう、闇に包まれていた。本当に、夏が終わる。俺たちは抱き合い、そしてもう一度、キスをした。

海の中から太陽を見上げた時のような、そんなぼんやりとした光の中。暖かさが俺を包む。

さっきの話には、続きがあるんだ。夏に恋をした男の話さ。そのバカな男は結局、夏と別れられず、2人で神のところに行ったんだ。そして頼んだ、夏を終わらせないでくれ、とな。神は怒り、だったら好きにしろと、2人を永遠の夏の中に閉じ込めたんだ。それが彼らにとって幸せなことなのかどうかはわからない。だが、その永遠の夏は時折、陽炎として俺たちの世界に並んで現れることがある。あの漠然とした不安は、終わらない夏に閉じ込められることに対するものなのかもしれないな。

相変わらず、話が長いわね。

彼女が言う。

いいじゃないか、時間はまだまだあるだろう、それこそ、永遠と言えるほどにさ。

俺たちは手を取り、そして、歩き出す。

終わらない、永遠の夏の中を。