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かきかたの本

書き方の練習

台風18号の日

昔から台風は好きなんですよ、ワクワクするじゃないですか。

仕事中、隣のデスクに向かって言うと、課長は退屈そうにPCの画面を見つめたまま短く一言、ガキじゃねえんだから、と言った。確かに、全国の配送に関わる我が部署では、交通障害を撒き散らしながら、文字通り威風堂々と日本を通り抜ける台風は迷惑な存在でしかない。しかし、そんな風に実害を被りながらも、俺はやはり台風が嫌いになれないのだ。窮屈な事務所のデスクから、窓の外の黒い雲を見上げ、俺は心のざわめきを感じていた。

いつから好きだったのかは思い出せないが、物心ついた頃から俺は、台風のことが好きだった。学校が休みになるだとか、そんなくだらない理由ではない。なんというか、雲のうねる黒い空や、叫び声のような風の音、その非現実な状況が、俺の胸を騒がせるのだ。台風の日には敢えて外に出て、雨と風を全身で感じる。その時、俺は世界と一体化したような、そんな気分になるのだ。

そしてそれと同時に、ずっと昔の、ある台風の日のことを思い出す。あれは、俺が小学校に上がった年、今日と同じ、台風18号が接近していた日のことだ。

その日は朝から、不気味なほどに暗い日だった。空には黒い雲がうねるように流れ、空気は冷たく、轟々とした風が窓を揺らす。そんな中、授業を終え、さあ帰ろうという時に、これまでなんとか耐え続けていた黒い空のダムが決壊した。突然、世界の終わりのような土砂降りの雨が降り出し、追い打ちをかけるように雷が鳴り響く。教師たちが慌ただしく靴箱に走り、帰ろうとする生徒たちを校舎へ押し込めた。

午後4時とは思えない薄暗い校舎内に押し込められた子どもたちは、それぞれ階段に座り、窓から見える世界の終わりを眺めていた。そして当時の俺も、その中の一人だった。

最初はワクワクしていた俺だったが、時間が経つにつれ強くなる雨と暗くなる空、泣き出す子までいる状況を見て、さすがに不安になり始める。このまま帰れないんじゃないか、誰かが言った。雨の音が嫌に大きく聞こえる。一際大きな雷が鳴り響き、空がさらに暗くなる。

俺は、泣いていた。周りにいた子どもたちの半分以上が、同じように泣いていた。その時のことを、今でも覚えている。俺にハンカチを差し出してくれた女の子が、いた。その子は顔も見たことのない子で、当然話したこともなく、なぜみんな泣いている中で、俺にだけハンカチを差し出してくれたのか、わからなかった。自分も今にも泣きそうな顔をしながら、泣いたらダメ、と、そう言って俺にハンカチを差し出してくれたのだ。

今考えても、あの頃の俺はどうしようもなくかっこ悪かったと思う。その時、俺は、ハンカチを差し出してくれた彼女の手を払ったのだ。俺は、かっこ悪いと思われたくなかったのだ。泣いているくせに、女の子にハンカチを借りるなんてかっこ悪いことをしたくなかったのだ。それから、ずっと下を向いてうずくまっていたので、彼女がどうなったのかはわからない。雨が収まり、教師の声で顔を上げた時、彼女の姿はなく、小さなハンカチだけがその場に落ちていた。

今でも、その日のことを思い出す。今にも泣き出しそうな彼女の顔。泣いたらダメと言った震える声。俺が払った、小さな手。

 

台風18号は、依然として勢力を保ったまま日本海上を北上中。今夜から明日未明にかけて関東地方へ上陸……雨と風の音に紛れ、カーラジオの声が途切れ途切れ聞こえる。この台風の夜の中、海沿いの道を走る車は一台だけだ。ワイパーを全開にしても前はほとんど見えない。猛烈な雨とうねる黒雲が、ヘッドライトに照らし出されては消える。

大荒れの海を眺めることのできる、小高い丘の展望台。その駐車場に車を停め、俺はその時を待つ。あの頃と同じように、窓の外に映る世界の終わりを見つめながら。すぐ近くで空が光り、轟音が響き渡る。カーラジオから流れる音が雑音に変わり、展望台の街灯が消えた。瞬間、あれだけ荒れ狂っていた雨と風が止まる。

まるで、その場だけ、すべての時が止まったような、そんな奇妙な感覚。俺は車のドアを開け、外へ出た。冷たく湿った空気が俺の全身を包む。遠く海の先には嵐が見えるが、この展望台の周辺だけは穏やかな時間が流れていた。消えていた展望台の街灯が数回点滅した後、ぼんやりと明かりを灯す。その下に、あの頃の彼女がいた。あの頃と同じように、今にも泣き出しそうな顔をして、遠くの嵐を見つめていた。俺は彼女に歩み寄り、そして、あの日からずっと大切に持ち続けていたハンカチを差し出す。

泣いたらダメだよ。俺が言うと、彼女は驚いたように顔を上げ、そして涙を流して小さく笑う。俺は、台風の目から溢れた涙を拭き取り、彼女の小さな手にハンカチを返した。彼女はそのハンカチを受け取り、小さく首を横に振ると、ハンカチを俺の瞳に当てた。また、泣いちまってたのか、俺は。まったく、いつになってもかっこ悪いな。照れ隠しに笑う俺を、彼女は小さな身体で抱き寄せ、そして言うのだった。もう大丈夫、と。

激しい雨と風が俺の身体に降りかかる。俺は海に向かって腕を広げ、叫び声を上げる。その叫びはすぐに、猛烈な風に掻き消される。何度掻き消されても、俺は叫び続けた。この台風の夜に、世界と一体化したような、そんな気分で。

 俺にはもう、帰る場所もなく、涙を拭ってくれる人もいない。だけど俺は、必死に涙を堪え、先の見えない嵐の中を進み続けるのだ。いつか、あの頃と同じように、ハンカチを差し出してくれる人が現れることを信じて。

その時、俺は今度こそ、その小さな手を握り返すことが出来るだろうか。

もう大丈夫。

彼女の小さな声は、吹き荒れる風雨に巻き込まれ、消えていった。