かきかたの本

書き方の練習

のらねこソクラテス

あいつは、小学校低学年の頃に出会ってからずっと、俺のことを見ている。信号機の上や、テーブルの下や、時には電車の吊り革にぶら下がりながら。いつも戯けながら俺を見て笑い、知ったような口を聞くのだ。退屈な野郎だ、と。

今夜は、俺の人生を変えた本の話をしようと思う。

たまには、嘘ではなく、真実の、俺の話をしよう。そんな風に思ったのは、amazonで、とある絵本を見つけたからだ。

“野良猫ソクラテス”というシリーズの絵本。タイトル通り、ソクラテスという名の人間の言葉を話す野良猫が登場する話だ。ソクラテスは、主人公の少年や少年のクラスメイトたちを助け、時には困らせ、友情を育んでいくというもの、だったと思う。いかんせん、もう10年以上前に読んだ本なだけに、内容はうろ覚えだ。

幼少期の頃、俺は、学校の図書室にあったこの絵本が本当に好きだった。ソクラテスは猫であり、それ故に当然のことながら学校へは行かず、普段は何をしているかわからない。だが、時折、退屈しのぎに学校を訪れ、いつもケラケラと笑いながら、主人公たちにちょっかいを出すのだ。

当時、学校に通うことが嫌いだった俺にとって、ソクラテスは憧れの存在だった。アウトローでありながら、仕方がない奴と呆れられながら、それでも子どもたちからは愛され、信頼されていた。ソクラテス自身はいつだって戯けて笑い、知ったような口でいろいろなことを話し、そうして高い木の上から街を見下ろし大きな欠伸をする。ふざけた風に話すが、彼は本当に大切なことを知っていて、主人公たちに、俺に、そのことを教えてくれた。カッコいいと思った。俺も、こんな生き方をしたい、と。

週に一度、授業の中で読書の時間があり、周りのみんなが流行りの“デルトラクエスト”や“かいけつゾロリ”を取り合う中、俺はバラバラに並んだ棚の中からソクラテスシリーズを探し出し、時には同じ物語を何度も読み返した。そして、ソクラテスの真似をして、群れず、知ったような口ぶりで話をし、そしていつも戯けて笑うようになった。

今だってそうだ。俺はいつだって戯けて笑い、知ったような口ぶりで話す。それでも、俺は、ソクラテスにはなれなかった。

ソクラテスは、怒りや悲しみや、そういった負の感情を滅多に出さなかった。その代わりに、ずっとヘラヘラと笑っていたのだ。子どもの頃の俺は、ソクラテスには何の悩みもないのだと思っていた。気ままな野良猫だから、何も悩まず笑ってられるのだ、と。今になって考えると、彼にもきっと、悩みはあったのだと思う。

印象に残っている話がある。“ソクラテスほえる”、というタイトルだったと思うのだが。その話の中で、ソクラテスの親友の魔女が姿を消した時、これまで一切の感情を現さなかった彼が、悲しみにほえたのだ。結局、魔女は見つからず、ソクラテスは数日後にはケロッとして、いつもと同じように笑うようになっていた。子どもたちに心配をかけないように、カッコいい姿であるために、悲しみを笑いの裏に隠して。

以前も書いたことがあるが、俺は、いつからか、怒りや悲しみの感情を上手く感じることが出来なくなってしまっている。それはきっと、ソクラテスに憧れていたからではないかと、そんな風に思うことがある。いつだって、どんな時だって、笑っているような男でありたいと、今だってそう思っている。俺にそう思わせたのは、幼少期の頃に出会ったこの絵本であり、ソクラテスという野良猫である。

しかし、今の俺はどうだ。学校に通っていた頃と変わらず、毎日同じ時間に起き、同じ電車に乗り、会社へ向かい、周りの人間に気を使いながらやりたくもない仕事をし、仕事が終われば家に帰りコンビニ弁当を食べる。思わずため息が溢れ、そして癖のように、楽しくもないのに笑う。今の俺は、気ままな野良猫とは、正反対の人生を歩んでいた。ソクラテスに救いを求めるように、力なく、乾いた声で笑う。すると、彼の声が聞こえるような気がするのだ、退屈な野郎だ、と。

彼の姿を探して外へ出る。彼は二階の屋根の上に寝転がり、俺を見下し笑っていた。

ソクラテス、俺を助けてくれよ。

その退屈な日々は、お前の選んだ道だろう。お前の望んだ道だろう。

そんなこと、言われなくてもわかっている。でも、どうすればいいかわからないんだ。助けてくれよ、あの頃、そうしてくれたように。

ソクラテスは、俺の生き方を変えてくれた。辛い時こそ笑うように、彼のおかげで俺は、そんな生き方が出来るようになった。だけど、今の俺はもう、上手く笑うことさえ出来なくなっていた。感情を上手く感じることも出来ず、それを隠すために笑うことさえ出来なくなった時、俺はどうなってしまうのだろうか。

あの本をもう一度読むことが出来れば、あの頃と同じように、ソクラテスは俺を導いてくれるだろうか。

あの頃と何も変わっちゃいねぇさ、俺も、お前も。だがな、世界やお前を取り巻く環境は変わってる。だから、お前は変わらなきゃならねぇんだ。

変わるために何をどうすればいいのか、それがわからないんだ。お願いだ、俺を見捨てないでくれ。

俺は、救いを求めるように、amazonで見つけたソクラテスシリーズの全巻を注文する。

数日後には、俺の手元にあの頃読んでいた絵本たちが届くだろう。その時、彼はもう一度、俺に道を示してくれるだろうか。

祈るような思いで、俺は彼との再会を待つ。楽しみよりも、不安の方が大きい。もし、10年ぶりに出会ったソクラテスが、俺に何も示してくれなかったなら。その時、俺は人生の指針を一つ失うことになるだろう。

なあ、ソクラテス、もう一度俺のことを助けてくれよ。

ソクラテスはゆっくり立ち上がり軽く体を伸ばすと、何も言わず、いつものように笑うこともせず、夜の闇へと走り去って消えた。