かきかたの本

書き方の練習

帰路

連休が終わる。俺は、何処へ帰るのだろうか。

この大型連休を利用し、数年ぶりに家族旅行へ行った。と、言っても、車で1時間ほどの距離のテーマパークであり、わざわざホテルを予約してまで行くものでもなかったのだが。姉夫婦と兄夫婦、それから子どもたち。合計10人の大所帯。気分を楽しむものだ、と、親父は言っていた。

いつからか、家族というものに対して、嫌悪感にも似たような、そんな感覚を持つようになっていた。それは、母親が死んだ頃からだろうか。厳格で怖かった父は、母親の死を境に、へなちょこになった。元々、親父と反りの合わなかった母方の親戚とは途端に疎遠になり、姉は子どもを作り逃げるように家を出ていった。残された俺は、年老いたへなちょこの親父を残して家を出るわけにもいかず、何故か家を建て、22歳にしてめでたく、持ち家と数十年のローンを背負うこととなった。

そんな諸々のこともあり、俺は今の家族に対してなんとも言い難い感情を持っているのだが。と、言うよりは、今の俺にとって、家族はもういないものとなっているのだが。しかし、昔は、こんな俺にも家族がいて、幸せな日々があった。

子どもの頃の記憶というものは断片的で、夢のようなものだ。昔のことを思い出す時、いつも思い出すのは、家族旅行の記憶だった。

小学校低学年の頃は、毎年、夏休みや正月の大型連休を利用し、家族旅行に行っていたような気がする。その頃は、母方の親戚ともまだ縁があり、15人ほどの大所帯での旅行だったように思う。

温泉街、湯けむりの漂う淡い光の街を、叔父と2人、浴衣で歩く。下駄の音。カランコロンと口で言いながら歩く俺を、笑って見ていた白髪頭の叔父の顔。

旅館の薄暗いゲームセンターで、バブルボブルをする母の背中。

くだらないことで怒鳴られた後、海の見える露天風呂で、親父と2人で見た、遠く真っ暗な海の上に浮かぶ船の灯り。

どれもが靄に覆われたような断片的な記憶で、今となってはそれが実際の出来事だったのかさえも、定かではない。ただ、それらの記憶を思い出している頃は、なんというのだろうか、不思議な感覚を覚えるのだ。例えるなら、17時の音楽が流れた時のような。もう帰らなければ、と、そんな風に思うのだ。

高速道路の灯りが好きだった。旅行で疲れた体で、帰りの車内で後部座席から見上げる橙色の優しい光が、好きだった。ああ、楽しかったなあ。もう、旅も終わりか。なんて、そんな風に思いながら。後ろへ流れていく温かい光を見上げ、目を閉じるのだ。そして、気がついた時には、家の布団で眠っていた。あの頃の俺には帰る場所があり、そして共に帰る家族がいた。

今でも、あの橙色の柔らかな光は好きだ。夜に一人、車を走らせていると思い出すのだ。あの頃の、淡い夢のような、温かい記憶を。

連休が終わる。俺は今、自分の部屋のベッドで、この記事を書いている。ここが、今の俺の帰る場所だ。ただ、心はいつもあの日々を思っている。俺の心の帰る場所は、此処にはないのかもしれない。

いつか俺に、家族が出来たなら。その時は、そこが俺の帰る場所となるのだろうか。そんな日が、いつか来るのだろうか。

俺の心は今も、この暗い道を、帰る場所を求めて走り続けている。あの日見上げていた橙色の灯りだけが、その道を照らしている。