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かきかたの本

書き方の練習

すき焼きと、恋多き女

「鶏肉が、美味しいわ」

2日連続でこの冬の最低気温を記録した2連休。まだ少し雪が残る、日曜日の夜のことだ。俺は“恋多き女”と、すき焼きを食べていた。

自分で自分の人生を“恋多き人生”と呼ぶだけあり、これまでに関係を持った相手は150人以上らしい。ロウソクの炎のような、静かで危険な、それでいてどこか引き寄せられる、そんな不思議な魅力を持った女性だった。

150人の男女と関係を持ったことのある女と、これまでの人生で恋人が出来たことのない男。2人が向かい合い、同じ鍋のすき焼きを食べている。世界というものは、人生というものは、何が起こるかわからないものだ。だからこそ、このゲームは飽きることなく面白い。

「鶏肉が美味しい」

俺の方を見向きもせず、彼女はもう一度、そんなことを言った。鶏並みに食の細い俺はすでに箸を置き、彼女が黙々と食事をしている様子を見ていた。彼女は、ずっと口を動かしていた。食べるか、話すか、食べながら話すか。彼女はメインの牛肉よりも、鶏肉をよく食べていた。

「鶏が好きなんだね」

俺が言うと、彼女は手を止め、箸で掴んだ鶏肉を眺めながら言う。

「ううん、別に好きじゃないわ。でも、かわいそうじゃない?」

「かわいそう?」

「そう。この子たちは、翼があるのに飛べないの。狭い飼育場の中で、ただ生かされて、広い世界の空を知ることもなく、殺される」

彼女は鶏肉を口に運び、続ける。

「だから、私が美味しく食べてあげる。そして、この子たちの代わりに広い世界を私が見るの」

若い女性店員が、気まずそうな顔で俺たちの席へやってきて閉店の時間を知らせる。店内を見渡すと、すでに客は俺たち2人しかいなくなっていた。彼女はグラスの烏龍茶を飲み干し、少し不満気な顔で立ち上がってコートを羽織る。そして、白いコートを羽織った俺を見て笑いながら、鶏みたいね、と、そんなことを言うのだった。

「少し、話しすぎちゃったかしら」

雪はやんでいたが夜の外は寒く、空には冬の月がやけに明るく輝いていた。彼女は自分の吐いた白い息を目で追い、そしてそのまま俺を見る。

「ねえ、鶏は、翼があるのにどうして飛べないと思う?」

「進化の過程で飛ぶ必要が無くなったから、じゃないのかな」

「ふふ、きっと鶏も同じようなことを思ってるわね。でも、ちがう。本当は、飛べるのよ、他の鳥たちと同じように」

彼女は二歩前に進み、手を後ろに回し、俺の顔を見る。その仕草に、胸が高鳴る。彼女の瞳は碧水晶の湖のように澄んでいて、それでいて石炭袋の淵のように深く暗く、まるで世界の全てを見透かしているようで、俺はその瞳から目が離せなかった。

「そう、貴方は飛べるわ。自分で飛べないと思い込んでいるだけ。だって貴方、羽ばたいていないじゃない」

そして彼女は当然のように、その瞳で俺の心も見透かしていたのだった。彼女は楽しそうに笑い、そして、後ろを振り返り、空へ向かって手を伸ばす。 

「空は、世界は、どこまでも広く、そして美しいわ。一度、がむしゃらに羽ばたいてみることね。せっかく翼があるんですもの」

「俺も、飛べるかな」

俺は彼女の隣に並び、同じように空へ向かって手を伸ばす。

「ええ、きっと飛べるわ。でも、もし貴方が飛び立てず、哀れに惨めに死んでしまったなら」

彼女はもう一度俺を見て、先ほどまでとはちがう、慈悲のような暖かさを感じさせる笑顔を俺に向け、言う。

「それでも、大丈夫。その時は私が世界を見せてあげるから」

 

2日連続でこの冬の最低気温を記録した2連休。まだ少し雪が残る、日曜日の夜のことだ。俺は“恋多き女”と、すき焼きを食べた。

ロウソクの炎のような、静かで危険な、それでいてどこか引き寄せられる、そんな不思議な魅力を持った女性だった。

彼女を送り届け、その後ろ姿を見送った後、俺は冷たい車のボディにもたれかかり、タバコに火をつけ空を見上げる。夜空には、歪んだ形をした月が明るく輝いている。俺は空へ手を伸ばし、そして鳥が羽ばたく時にそうするように、その手を上下へ振った。

空は、世界は、どこまでも広く、そして美しいらしい。

俺の吐いたタバコの煙は、深く澄んだ冬の夜空へ一瞬の淀みを生み、そして消える。

その夜、俺は、ほんの少しだけ、飛べそうな気がした。