かきかたの本

書き方の練習

君と春雨

そうじゃないわよ

そう言って君は、おかしそうに笑った。

カップの春雨スープとミルクティーが2つずつ入ったコンビニ袋と、それから口の半分開いたアホ面をぶら下げ、俺は立ち尽くす。

私が好きなのは、春の雨。別に、春雨スープが食べたかったわけじゃないわ

そう言って彼女はもう一度、くくっと笑う。俺は途端に恥ずかしくなり、部室のテーブルの上に春雨スープのカップを投げるように置く。

違う、俺が食べたかっただけだから

ムキになりカップのビニールを剥いだところで、この部室には“湯”がないことに気づく。俺はカップを投げ捨て、ため息を一つ、椅子に座る。彼女はそんな俺の様子を見て、今度は瞳だけで笑い、そうして、手元の本に視線を落とした。

グスコーブドリの伝記

残念、銀河鉄道の夜でした

彼女は得意げに言い、そのボロボロに読み古された本のページをめくる。

宮沢賢治は、彼女のお気に入りだ。と、いうより、彼女は宮沢賢治しか読まない。文学部の部長でありながら、一人の作家の小説しか読まないというのは、どうかとも思うが。

私は、宮沢賢治以外の文学を知らないの

それが彼女の口癖だった。

 

そしてジョバンニはすぐうしろの天気輪の柱がいつかぼんやりした三角標の形になって、しばらく蛍のように、ぺかぺか消えたりともったりしているのを見ました。

 

俺は、暗記するほど読み込んだその一節を読み上げながら、ミルクティーのボトルの蓋を緩め、彼女の前に置く。

 

それはだんだんはっきりして、とうとうりんとうごかないようになり、濃い鋼青のそらの野原にたちました。

 

彼女は、凛とした鈴のような声で続ける。

 

いま新しく灼いたばかりの青い鋼の板のような、そらの野原に、まっすぐにすきっと立ったのです。

 

銀河ステーション、銀河ステーション

俺が声色を変えて言うと、彼女は吹き出すように笑った。俺も同じように、ケラケラと笑う。

部室の中には、2人の笑い声と、それから雨の音だけが静かに響いている。

春の雨は、好きなの

彼女は、窓の外を降る雨を見つめ、そんなことを言った。

暖かくって、静かで、それでいてどこかお祭りみたいな騒々しさもあって

薄暗い部室の窓から見る雨の景色は、まるで光を放つ絵画のようで、その前に座る季節外れの冬服を着た彼女は、絵画の中に描かれた幻想のようにも見えた。俺は、そんな彼女の姿に見惚れると同時に、漠然とした不安を覚えていた。いつか彼女が、そう、まるでカムパネルラのように突然に、俺の前から消えてしまうのではないかと、そんな不安を。

 

僕たちと一緒に乗って行こう。僕たちどこまでだって行ける切符持ってるんだ。

 

俺が言うと、彼女は目を丸くして俺を見る。俺は少し恥ずかしくなって、彼女から目をそらした。雨音に混じり、彼女の小さな笑い声が聞こえる。

大丈夫、と、彼女は言う。

私は、サザンクロスでも石炭袋でも降りないわ

本を閉じ、しっかりと俺の目を見て、彼女はそう言った。優しい笑顔だった。

けれどもほんとうのさいわいは一体何だろう。

銀河鉄道の夜は、宮沢賢治の死の直前まで変化を続けた作品だ。その中で最後、ジョバンニはカムパネルラに向けてそんな言葉を投げかけている。それは、賢治自身が読み手へ向けて投げかけた問いなのだと、俺は思う。

春雨スープが食べたくなったわ

彼女は立ち上がり、片手に春雨スープのカップを持ち、もう片方の手で俺の手を取る。

給仕室にポットがあったはずよ

彼女は悪戯な笑顔を俺に向ける。暖かい、春の雨のような気持ちが俺の心を包む。

部室の外に出ると、少し肌寒い空気が俺たちを包む。春の雨は未だ止む気配はない。

ほんとうのさいわいは、一体何だろう

今なら、そのジョバンニの問いにも答えることができる気がする。

俺の手を引いて走る彼女の、揺れる長い黒髪をぼんやりと見ながら、そんなことを思った。