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かきかたの本

書き方の練習

異世界の話の序章

あの日は、本当に暑かった。と言っても、夏しかないようなこの国では、この気温はごく日常的なもので、街を歩く人々は皆、暑さに顔をしかめることさえせず、ただそれぞれの目的のために歩いていた。タオルを持っている人間は俺だけで、そのことが余計に俺に、自分が異国にいるということを実感させる。

多額の金を支払い、調査船に同乗し北極の“世界の穴”を通り、海が上にも下にも見える不思議な渦の中を2週間進んだ。途中、迷い込んだのか、それともそこが住み家なのかはわからないが、巨大なイッカクの群れが“天井の海”を泳ぐ姿を見た。夢や異世界のような光景の中、俺は叔父が昔よく話してくれた、空を泳ぐクジラの話を思い出していた。

この、地底都市アガルタが発見されてから15年。伝承の中にしか存在しなかった幻の都市も、今となっては、まともな往復方法が確立され、その存在は世界に知れ渡っている。と、同時に、その途方もなく遠く、そして退屈で、訪れる価値もほとんどない都市は、謎に包まれていた頃とは打って変わり、人々の興味を失わせていた。

帰りはどうするんだ。調査船の船長が俺に聞く。高い往路だ、帰りの運賃はない。なんとかするさ、と答え、俺はリュック一つでアガルタの地に降り立ったのだった。

アガルタ人の文化は、学者たちの興味を引くものではないらしく、15年前に発見されたということを差し引いても、アガルタの文化や言葉を記した文献は、非常に少ない。その少ない文献の中から、なんとか現地の言葉を学んだつもりでいたが、細かな意味や発音の違いがあるらしく、これがどうして厄介なもので、思うように事が進まない。ようやく港から次の街に到着した頃には、すでにアガルタに到着してから24時間が経とうとしていた。

アガルタには、夜がない。それに、時計もその代わりとなる時間を示すものもない。ここの人々が何を基準に生きているのか、わからない。

地球の内側に存在する慣れない異国、暑さと寝不足で、頭がどうにかなりそうだ。とにかくどこかで、一息つきたい。街をふらふらと放浪し、ようやく宿屋らしき店を見つけ、そこに入る。受付の、真っ黒に日焼けした男がちらりとこちらを見る。俺はメモに書いてきた言葉を読み、自分が表皮世界から来たことと、部屋を借りたい旨を説明する。受付の男は顔をしかめるが、話の内容は理解したようで、俺に向かって何かを言った。その言葉の意味が、わからない。まいった。何かヒントが欲しいが、受付の男は身振りをするわけでもなく、ただじっと、俺を見つめるのだ。

俺はメモ帳をめくり、それらしき言葉を探すが、まったくわからない。情けない話だ。言葉が通じなくても、同じ人間なのだから、身振り手振りでなんとかなると、そう思っていた。受付の男がイライラしている様子がわかる。俺は諦め、ため息をひとつ、メモ帳を閉じた。

その時、部屋を借りたいの、と聞き慣れた言葉が飛んできた。それは、アガルタ語でも英語でもなく、故郷の日本の言葉だった。一瞬、幻聴かと思ったが、振り返るとそこには確かに、日本人の、俺より少し若い女性が立っていた。

彼女は愛想よく笑いながら流暢なアガルタ語で受付の男と話し、そして俺を指差し、また何かを言う。先ほどまでイラついていた男の顔に、笑みが浮かぶ。その様子をボーッと見ていると、女性が俺の方を向き、一泊なら石四つで、それ以上なら一日ごとにプラス二つずつでいいって、と言った。俺は慌てて、とりあえず一泊で、と答え、リュックを開く。

アガルタの通貨は、石だ。普通の石ではなく、アガルタストーンと呼ばれる特別な紋様の書かれた石で、アガルタの人々はこの石をただの通貨としてではなく、神のように信仰し大切にしている。一応、正規ではないが表皮世界で換金もでき、その価値は石一つで約100ドル。俺はこの15年の貯金全額の中から、往路の船賃を差し引き、余った分を全てこの石に替えた。それでも、手元には106個しかない。あまり、長居は出来そうにない。

俺はリュックから、3センチ四方の歪な形の石を四つ取り出し、それを受付の男に差し出そうとする。待って、女性が言い、俺の手を止める。女性は俺の手から石を取ると、それを額に当てて目を閉じ、祈るように何かを言ってから、男へ差し出した。男は受け取った石を確認し、小さく頷き、そして部屋の鍵を女性に渡した。女性は俺を見てふふっと笑い、2階の部屋ですって、行きましょ。と、言ったのだった。

さっきのは何だ、祈りなのか。ギシギシと音を立てる階段を登りながら、俺は女性に問いかける。わからないけど、現地の人間はみんなあんな風に祈りを捧げるの。彼らにとって、石は神みたいなものだから。と、彼女は言う。その言い振りから、彼女が俺のような旅行者ではなく、長い間このアガルタで生活しているのだということがわかる。

案内されたのは畳10畳ほどで、ベッドも椅子もテーブルもない、だだっ広いだけの部屋だった。まあいい、屋根と壁さえあれば十分だ。俺はリュックを下ろし、部屋の真ん中に寝転がる。アガルタに到着して以来、いや、日本を発って以来、初めて落ち着くことができたような気がする。たまった全身の疲れが、冷たく埃っぽい木張りの床へ、吸い込まれるように流れていく。さっきはありがとう、本当に助かった。俺が言うと、女性は部屋の窓を開けながら、いえいえ、こちらこそ、と返す。

起き上がり見ると、彼女も部屋の隅に自分の荷物を置き、座ろうとしている。今日はタダで泊まれる場所が見つからなくて困ってたの。笑いながら言い、彼女は俺にウインクをしたのだった。

 

さあ、今日の話はここまでだ。

時計の針はもうすぐ23時を指そうとしている。この物語のたった1人の小さな観客は、俺の腕の中で目をこすりながら、えー、と小さく言った。もっと聞かせてよ、パパとママのお話。俺は彼の肩まで布団を掛け直し、その小さな体を抱き寄せる。

続きはまた明日、だ。明日は、そうだな、特別に、パパとママが伝説を追ってシャンバラの山へ向かった所まで聞かせてあげよう。

ほんとうに?

ああ、お前が話の途中で眠くならなければ、な。

長く、退屈な昔の話さ。誰に言うわけでもなく呟き、俺は天井を見上げ、遠い世界の果てでの出来事に想いを馳せる。窓の外では、秋の虫が鳴いている。こちらの世界には、四季があり、夜がある。

そうして俺は思うのだ。今は無き、地底都市アガルタ。伝説のシャンバラの黄金の山々。世界の果てで彼女と過ごした、あの幻のような時間。あれは本当に、現実のものだったのだろうか、と。