かきかたの本

書き方の練習

ろくでなし、2人、防波堤にて

俺はきっと、何者にもなれずに死んでくんだろうな

最悪に心地の悪い蒸した空気の中、俺たちは雨上がりの夜空の下で、工場の煙突から吹き出す青い炎を眺めていた。

7月9日

いつもと変わらない、何もない日曜日

扇風機の前で、何度も読んだ漫画をもう一度読み返し、時折くだらない会話をしながら日中を過ごし、夕方日が暮れると、2人でのそのそとコンビニへ向かい、ざる蕎麦と冷やし中華と、一番安いラクトアイスを一つ買い、それを蒸し暑い部屋で食べる。

この世界に生きている人間は俺と彼女だけで、そして俺たちのこんな日々はきっと、永遠に続くのだろう。そんなことを、ぼんやりと考えていた。

ねぇ、海に行きましょうよ

カップのバニラアイスを2人、半分ずつ食べ終え、少し冷たい廊下のフローリングでボロ雑巾のように横になっていた時。彼女は俺の手を握り、そんなことを言った。

雨、降ってんじゃん

やみましたよ、ほら

彼女は頭上を指差して言う。その先には当然、雨上がりの澄んだ夜空など見えず、黄ばんだ天井が見えるだけだ。

どうして海なんだよ

海じゃなくてもいいんです、どこでも、外の空気を吸いたいんです

このクソ暑いのに?

このクソ暑いのに、です

そうか

なら、しかたねぇな。と、俺はゆっくり立ち上がり、椅子に掛けていたよれよれのジーンズを履き、棚の上からバイクのキーを取る。玄関を見ると、彼女は両脇にヘルメットを抱え、嬉しそうに笑っている。

なんか、スイカ畑の人みたい

あっ、帰りにマックスでスイカも買って帰りましょう、4分の1のやつ

ドアを開けると、部屋の中よりはほんの少しだけ涼しい空気がじっとりと汗ばんだ肌に伝う。ボロのバイクにまたがり、エンジンをかける。彼女は何も言わず、俺の後ろに乗り、そして腕を回す。お互い、汗ばんだ肌が触れ合う。心地悪さはない。

出来るだけ車の少ない道を選びながら、俺たちは何も話さず、海へ向かう。海へ近づくにつれて、ぬるく湿った風がじっとりと体にまとわりつき、その、先の見えない暗い夜道はまるで、俺の人生を表しているようにも感じられた。ただ、背中に感じる僅かな重さと温かさ、息遣い、それだけを救いに、俺はその道を進む。

永遠にも続くかと思われた道はあっさりと終わり、突き当たりの防波堤の前で俺はバイクを止めた。防波堤の上に登ると、人工島の工場地帯の輝きが目の前に広がる。

無数の煙突から吹き出す炎と煙は夜空を赤く染め、まるで繁華街のネオンのような鮮やかな色をしたライトが、巨大な魔物のようなタンクを照らし出す。いつから世界に夜は無くなったのだろうか。この輝きは、人類の文明の輝きだ。進化と繁栄の光だ。夜を忘れた人類は、その先に一体

ねぇ、私のこと忘れてないですか

むっとした声が足元から聞こえる。見ると、彼女が頬を膨らませながら、両手を俺へ向けている。俺は彼女の手を取り、防波堤の上に引き上げる。

わぁ、綺麗、すごいすごい

彼女は大げさに両手を広げ、そんなことを言った。なぜか被りっぱなしだったヘルメットを彼女の頭からもぎ取り、防波堤の上に座る。タバコに火をつけようとして、そこで、ライターを忘れてきたことに気づく。

あっ、火ですか、まかせてください

言って、彼女は煙突の炎に手を伸ばす。轟々と燃え盛る炎を摘むように指先に取り、それを俺の咥えるタバコにつける。タバコに火が移ったのを見て満足そうに、彼女は指先の火を吹き消した。

前も言ったけど、あんまりそういうの、してほしくないんだけどな

俺は夜空に煙を吐き、言う。

いちいち、俺とは違うってこと、思い出しちまう

別にいいじゃないですか、違ってても、一緒にいるんですから

今はそうだけどさ、なんか、いつかどっか遠くにいっちまうんじゃないかって、そんな風に思っちまうんだ

俺が言うと、彼女は可笑しそうに笑い、そして俺の隣に座り、その華奢な体を俺に寄せる。彼女は何も言わなかった。否定するわけでも、肯定するわけでもなく、ただ、鼻歌を歌いながら、俺の手を握っていた。それでよかった。俺たちには、それで十分だった。

俺はきっと、何者にもなれずに死んでくんだろうな、この世界のどこかで、生きてることも死んだことも、誰にも知られずにさ

工場の輝きを見ながら、小さく呟く。彼女は鼻歌を口ずさむのをやめ、俺を見る。

あなたがこの世界で何者にもなれなくても、私には、あなたしかいませんよ

どうして?お前には力があるのに、こんなろくでなしの男しかいないなんて、そんなことねえだろ

彼女は少しむっとした顔をして、それから、工場地帯を隠すように手のひらでなぞる。彼女のなぞった場所から光が消えていき、そして最終的に、全てが暗闇に包まれる。

おい、何を……

次の瞬間、彼女が俺を抱き寄せる感触、そして俺の唇に何か柔らかいものが当たる。波の音、風の音、虫の声、先ほどまで聞こえていた全ての音が遠くフィルターの先に聞こえているような感覚。目を開いているはずなのに、何も見えない。ただ、彼女の温もりと息遣いだけは確かに感じられる。

永遠とも一瞬とも思える時が経ち、雲の切れ間から月明かりが俺たちを照らした時。まるでスイッチを押したかのように工場地帯の全ての光が灯された。惚ける俺をよそに、彼女は何事もなかったかのようにまた鼻歌を口ずさみながら、工場地帯の輝きを見つめている。ただ、その頬がほんの少し、紅く染まっているように見えた。

私は、ろくでなしのあなただからいいんです。家で漫画を読んでゴロゴロして、コンビニで買った安いアイスを2人で半分こして食べて、たまにバイクでお出かけして、そんな生活が好きなんです

彼女は静かに、鼻歌を歌うように言う

特別じゃなくていいんです。あなたはあなたで、私にとってのあなたでいてくれるだけでいいんです

最後の言葉は、まるで子どものわがままのように聞こえた。そんな彼女が愛しく思え、俺は彼女の肩を抱き寄せた。彼女は何も言わず、その小さな身体を俺に預ける。

それから俺たちは、どれだけの時間その景色を見ていたのか。どちらともなく立ち上がり、防波堤を降り、バイクに乗る。帰り道、今度は闇へ向かう道ではなく、光へと向かう道だ。

この世界に永遠なんてものはない。そんなことは知っている。永遠に続くと思っている退屈な生活も、何もない人生も、いつかふとした瞬間に終わりを迎える。だからこそ、俺たちは暇潰しのような今の時間こそを、大切に生きなければならない。なんて、そんな大層なことを言ったところで、俺は明日からも変わらず、ろくでなしの人生を送り続けるのだろう。

ただ、背中に感じるこの温もりがある間は。その間だけは、この退屈でくだらない、きっと何者にもなれないそんな人生も悪くはない。

スイカを買って帰ろう。

4分の1のやつを買って、帰ろう。