かきかたの本

書き方の練習

休息の待ち時間

今日、会社を休みます

そう言った時、課長はいつも以上に驚いた顔をした。それもそのはずだ。今の部署に異動して2年半、俺が当日に会社を休んだことは一度も無い。それどころか、冠婚葬祭以外で有給休暇を取ったこともないのだ。

風邪を引いた日も、台風で車が水没した日も、祖父が死んだ日も、12年間飼っていた猫が死んだ日も、母の最初の命日も。俺は何食わぬ顔で出社し、一日仕事をし、そして定時後の帰る前に課長に、そういえば、と切り出すのだ。

そこまで大きな責任のある仕事をしているわけではない。担当業務があるとはいえ、俺が一人抜けたたところで、数日くらいならなんとでもなる。ただ俺は、いつもと違うことをすることが極端に苦手な性格だった。と、いうよりは、その為に踏むべき手筈ー電話や事前申請や業務の引き継ぎなどーや、それに連動する様々な思考を恐ろしいほど面倒くさがった。決められたルーティーンの中に収まっている方が、よっぽど気楽だったのだ。

課長はそういった“報告”を聞くと、決まって驚いた顔をして、それから少し不機嫌そうに呆れた表情で、仕事なんてしてる場合じゃないだろう、と言うのだ。それから2、3の質問を投げかけ、最後に、気をつけて帰れよ、と言うのだ。俺は彼のー自分よりずっと年上の上司ではあるがー部下に対するそんな態度が嫌いではなかった。

 

その日は、いつもより一時間早く出社し、誰もいない事務所で一人せっせと今日の仕事に必要な書類を各担当ごとに仕分けた。今日仕事を休むことは家を出た時から決めていたので、この仕分けは代わりの担当者への引き継ぎをスムーズに済ますためのものだ。

なんだ、今日は早いじゃないか

ちょうど書類の仕分けが終わり、3人の担当者の机に引き継ぎ事項と謝罪の旨を書いた手書きのメモ置いた時、上機嫌で課長が出社する。彼は仕事以外の話をする時は、いつも声のトーンが数オクターブ高くなる。課長が席に座ったのを確認し、会社を休む旨を伝える。彼は途端に真剣な表情になり、どうした、と言った。その表情から、彼の頭の中で様々な思考が広がっていることが感じて取れた。彼はそういう人間で、だからこそ俺は彼の下で真面目に働くことが出来る。

会社を休む理由は単純明解。単なる体調不良だ。先週から痛みを感じていた左耳の奥。それが、今朝起きた時には、のっぴきならないレベルの激痛となっていたため、だ。その旨を説明すると、課長は少し安心したような表情で、もっと早く医者に行けよ、と言い、それから続けて、別に電話でもよかっただろう、と言った。

電話でもよかった、そう言われればそうだ。会社を休むために一時間早く出社するなんて、どうかしている。ただ、いずれにせよ俺は会社には出ていただろう。他の担当者へ引き継ぎの書類をまとめて手書きのメモを残すことで、それなりの誠意を見せるため。課長と顔を合わせて話をすることで、過度な心配をさせないため。俺はそういった諸々のことを考えすぎてしまう節があるな、と、帰りの車の中でぼんやりとそんなことを考えた。そして、自分のそういう行き過ぎて律儀なところが気に入っている、ということも。

 

病院へは、9時を少し過ぎた頃に到着した。診察開始は9時30分だが、狭い待合室の椅子にはすでに7、8人の人が座っていた。受付で渡された問診票の項目を埋め、保険証と合わせて無愛想な女性に返すと、代わりに23番の番号札が渡される。23番。23番というのは、恐らく読んで字の如く、23番目に呼ばれるということなのだろう。まだ診察も始まっていないのに。俺はため息を一つ、空いている席を探す。

子どもの頃は、何かを待つことはあまり好きではなかった。幼稚園のバスや病院の待合室、電車や車の移動時間もそうだ。その先に何があるかを理解出来ていなかった頃の俺にとって、何かを待つという行為は、動きを制限されるものでしかなく、それは耐えられない苦痛だった。思えば、何かを待っている時、その隣にはいつも母親がいた。彼女は何も言わず、ただぼんやりとどこか遠くを眺め、辛抱強くその時を待っていた。時折、俺の肩や頭に回した指をリズミカルに動かしながら。

待合室で名前を呼ばれる時を待っている間、持ってきていた文庫本を読んでいた。江國香織の『落下する夕方』だ。少し前、知人と古本屋の文庫本のコーナーでこの本の話をした時、そういえばこの本を誰かに貸したままになっていたことを思い出した。誰だったか、大切な人だったような気がする。一番好きな本を読んで欲しいと思えるような、そんな風な。結局、誰かは思い出せなかったが、もう一度読みたいと、そう思った俺は、またこの本を買った。同じ本を二度買う。二度買いたいと思えるような、ずっと手元に置いておきたいと思えるような、そんな作品と出会えることは、幸福なことだと思う。

結局、診察の順番が来たのは12時前だった。約3時間。隣に座っていた幼稚園に通っているくらいの女の子は、いつの間にかセーラー服を着た少女となっていた。診察の待ち時間の間にすっかり成長してしまった夏に似つかわしくない色白の少女は、手持ち無沙汰そうに自分の爪を眺めたり、天井を見上げたりしていた。

何かを待つ時間が苦痛でなくなったのは、いつからだろうか。診察中、耳の中を覗かれながらぼんやりと考える。何かを待っている時間は、人生の中で唯一の休息の時間だと思う。“その先の何か”が訪れるまでの間、自分の時間を預けているのだ。預けているのなら、仕方ないので、俺は自由に時間をつぶす。待っている間は、その場を離れなければ何をしても自由だ。何をしているのかと聞かれれば、待っていると答えればいいのだから。それは、子どもが親に対して行う無邪気な責任転嫁のようなものだと思う。だからこそ、いつだって自由だった子どもの頃の俺は、待つことが嫌いだったのだ。

一冊の本を読み終えた余韻にぼんやりしていたので、診察の内容はあまり頭に入ってこなかった。薬を飲めば治ると、そんなことを言われていたように思う。よくわからないが、医者が言うのなら、きっとそうなのだろう。

診察室を出た時、本がカバンに入っていないことに気づく。さっきまで座っていた席へ目を向けると、先ほどのセーラー服の少女が熱心に俺の置き忘れていた本を読んでいた。微笑ましい気持ちになり、俺は何も言わず、会計を済まし、病院を出ようとする。

あっ、すみません!

俺に気づいた少女が、慌てて声を上げた。静かな待合室に彼女の高い声が響く。涼しい夏の風のような声だった。注目が集まり、彼女は一瞬恥ずかしそうに目を伏せ、そのまま俺に駆け寄ってくる。

あの、これ

どこまで読んだ?

えっと、華子が家に来るところまで、です

続き、気になるでしょ

ええ、まあ……

じゃあ、あげるよ

えっ、いや、悪いですよそんなの

いいよ、俺はもう全部読んじゃったからさ 

俺が言うと彼女は少し申し訳なさそうに両手で本を胸の前に抱え、ありがとうございます、と、恥ずかしそうに言うのだった。

 

平日の昼下がり。ちょうどお昼休み時ということもあり、通りには作業服やスーツ姿の人々が多く見える。今日の俺は、彼らとは別の世界を生きている。鼻歌を口ずさみながら、家へと車を走らせる。

左耳の痛みは変わらず続いている。しかし、俺の心は不思議と安らぎの中にあった。

本屋に寄って帰ろう。

夏の昼下がり、緩やかな淀みのような陽だまりの中で、そんなことを思った。