かきかたの本

書き方の練習

UFOを見た

UFOを見た、と思ったが、どうやらあれは飛行機だったらしい。

「こんな時代に、空を飛べる飛行機だなんて、馬鹿げてる。UFOの方がよっぽど現実的だぜ」

見知らぬ誰かの古いアルバムを炎に焚べながら、D.Dが言う。紙はよく燃える。分厚い束なら、より長く。今の俺たちにとっては、他人の思い出よりも暖をとる方が重要だ。

「いや、でもあれは確かに飛行機だったよ。翼があって、たぶんエンジンもついてた」

「だったらそいつは、翼とエンジンのついたUFOだろうよ」

屋根のない民家の瓦礫の中、かつて茶の間であったろう場所で焚き火を囲んでの団欒だ。D.Dの話では、世界は随分と昔に終わったらしい。俺が眠っている間、その崩壊を目の前で見てきた男だ。

「で、ケビン、そのUFOはどっちに向かって飛んでた?」

「ええと、電波塔の方に向かって飛んでったから、ここから見ると…東だ!」

東、か。古い地図を広げる。ここから東、60kmほど先に、軍の基地施設の跡地がある。中規模基地で、そこなら滑走路もあるはずだ。

「どうする」

「60kmか、道が無事なら歩きで3日ってところだな」

D.Dはそこまで言って、火から串焼きを取りそれを口に運ぶ。彼が捕まえてきたよくわからない生物を、生きたままテント用のペグに突き刺した物だ。丸焦げになりながらも手足をバタつかせるその生物を、D.Dは気にせず頭から食らう。

「あー、よく食えるね、そんな、なんというか、グロテスクなもの」

「お前の大好きな腐ったレーションよりましだ」

2人の会話を聞きながら、俺は仰向けに寝転がり、夜空の星を見上げる。屋根のない場所で眠るのは、随分と久しぶりな気がする。

「今夜は、星がよく見えるな」

俺が言うと、2人は会話を止め、同じように空を見上げる。

「ずっと昔、まだこの星に人間が生きていた頃、夜空に星はなかった」

「どういうこと?」

「地上が明るすぎたんだよ。人間は、闇を恐れていたからな」

D.Dがアルバムの束を火に投げ入れる。その拍子に、束から抜けた一枚の写真が俺の胸の上に落ちる。それは、かつてこの家に住んでいたであろう家族の集合写真だった。

「なあ、どうして世界は終わっちまったんだ」

「さあな、人間がそう望んだんだろうよ」

「彼らの言葉で言うなら“神の裁き”ってやつかな」

 「どっちだって変わらねえよ。都合の悪いことは全部神のせいにしちまう連中だ」

「神の裁き、か」

俺は、家族写真を焚き火に投げる。写真は、火の中で一瞬だけ明るく燃え、そして黒く消えていった。

「さあ、明日は朝から歩きだ。進路は東、宇宙人に会いに行くんだ、失礼の無いよう銃の準備はしておけよ」

「なあ、D.D、もし、あの飛行機に乗ってたのが僕ら以外の人間だったら、どうする?」

「……」

「ケビン、お前ももう寝ろ。今夜は俺が見張る」

「あ、ああ、わかったよ」

スコープ付きのボルトアクションライフル(D.D曰くまともに弾が飛ぶのが奇跡の骨董品らしい)を持ち、瓦礫の山を登る。

ずっと遠く、ドーム状の星空がどこまでも続いている。かつて人類が生きていた頃、夜は光に溢れていたらしい。だが、今が暗いわけじゃ無い。月と星の光で、遥か彼方の地平線の先まで見渡せる。

世界は、ずっと昔に終わったらしい。ある時、何かが起き、世界は瓦礫の山と化した。それまで、私欲にまみれた穢れた繁栄を謳歌していた人類は姿を消し、世界には俺たちしかいない。はずだった。

星空の下を、東へ向かう光が見える。一瞬、流星か火球かと思ったが、違う。もっと、意思を持った能動的な動きだ。スコープ越しに見ると、それは翼とエンジンを持った空を飛ぶ何か。その機械を飛ばすことが出来るのは、俺の知る限り人間だけだ。

「おい、ありゃあ……」

「ね、ほら、飛行機だよ飛行機!」

その夜、俺は2度目のUFOを見た。と、思ったが、どうやらあれは飛行機らしい。

「なあD.D、確かに世界は終わっちまったかもしれねぇが」

銃のスコープを下ろし、遠く東の果てへ目を向ける。

「人間は、きっとまだいる。この終わっちまった世界の中で、まだ生きている」

異世界の話の序章

あの日は、本当に暑かった。と言っても、夏しかないようなこの国では、この気温はごく日常的なもので、街を歩く人々は皆、暑さに顔をしかめることさえせず、ただそれぞれの目的のために歩いていた。タオルを持っている人間は俺だけで、そのことが余計に俺に、自分が異国にいるということを実感させる。

多額の金を支払い、調査船に同乗し北極の“世界の穴”を通り、海が上にも下にも見える不思議な渦の中を2週間進んだ。途中、迷い込んだのか、それともそこが住み家なのかはわからないが、巨大なイッカクの群れが“天井の海”を泳ぐ姿を見た。夢や異世界のような光景の中、俺は叔父が昔よく話してくれた、空を泳ぐクジラの話を思い出していた。

この、地底都市アガルタが発見されてから15年。伝承の中にしか存在しなかった幻の都市も、今となっては、まともな往復方法が確立され、その存在は世界に知れ渡っている。と、同時に、その途方もなく遠く、そして退屈で、訪れる価値もほとんどない都市は、謎に包まれていた頃とは打って変わり、人々の興味を失わせていた。

帰りはどうするんだ。調査船の船長が俺に聞く。高い往路だ、帰りの運賃はない。なんとかするさ、と答え、俺はリュック一つでアガルタの地に降り立ったのだった。

アガルタ人の文化は、学者たちの興味を引くものではないらしく、15年前に発見されたということを差し引いても、アガルタの文化や言葉を記した文献は、非常に少ない。その少ない文献の中から、なんとか現地の言葉を学んだつもりでいたが、細かな意味や発音の違いがあるらしく、これがどうして厄介なもので、思うように事が進まない。ようやく港から次の街に到着した頃には、すでにアガルタに到着してから24時間が経とうとしていた。

アガルタには、夜がない。それに、時計もその代わりとなる時間を示すものもない。ここの人々が何を基準に生きているのか、わからない。

地球の内側に存在する慣れない異国、暑さと寝不足で、頭がどうにかなりそうだ。とにかくどこかで、一息つきたい。街をふらふらと放浪し、ようやく宿屋らしき店を見つけ、そこに入る。受付の、真っ黒に日焼けした男がちらりとこちらを見る。俺はメモに書いてきた言葉を読み、自分が表皮世界から来たことと、部屋を借りたい旨を説明する。受付の男は顔をしかめるが、話の内容は理解したようで、俺に向かって何かを言った。その言葉の意味が、わからない。まいった。何かヒントが欲しいが、受付の男は身振りをするわけでもなく、ただじっと、俺を見つめるのだ。

俺はメモ帳をめくり、それらしき言葉を探すが、まったくわからない。情けない話だ。言葉が通じなくても、同じ人間なのだから、身振り手振りでなんとかなると、そう思っていた。受付の男がイライラしている様子がわかる。俺は諦め、ため息をひとつ、メモ帳を閉じた。

その時、部屋を借りたいの、と聞き慣れた言葉が飛んできた。それは、アガルタ語でも英語でもなく、故郷の日本の言葉だった。一瞬、幻聴かと思ったが、振り返るとそこには確かに、日本人の、俺より少し若い女性が立っていた。

彼女は愛想よく笑いながら流暢なアガルタ語で受付の男と話し、そして俺を指差し、また何かを言う。先ほどまでイラついていた男の顔に、笑みが浮かぶ。その様子をボーッと見ていると、女性が俺の方を向き、一泊なら石四つで、それ以上なら一日ごとにプラス二つずつでいいって、と言った。俺は慌てて、とりあえず一泊で、と答え、リュックを開く。

アガルタの通貨は、石だ。普通の石ではなく、アガルタストーンと呼ばれる特別な紋様の書かれた石で、アガルタの人々はこの石をただの通貨としてではなく、神のように信仰し大切にしている。一応、正規ではないが表皮世界で換金もでき、その価値は石一つで約100ドル。俺はこの15年の貯金全額の中から、往路の船賃を差し引き、余った分を全てこの石に替えた。それでも、手元には106個しかない。あまり、長居は出来そうにない。

俺はリュックから、3センチ四方の歪な形の石を四つ取り出し、それを受付の男に差し出そうとする。待って、女性が言い、俺の手を止める。女性は俺の手から石を取ると、それを額に当てて目を閉じ、祈るように何かを言ってから、男へ差し出した。男は受け取った石を確認し、小さく頷き、そして部屋の鍵を女性に渡した。女性は俺を見てふふっと笑い、2階の部屋ですって、行きましょ。と、言ったのだった。

さっきのは何だ、祈りなのか。ギシギシと音を立てる階段を登りながら、俺は女性に問いかける。わからないけど、現地の人間はみんなあんな風に祈りを捧げるの。彼らにとって、石は神みたいなものだから。と、彼女は言う。その言い振りから、彼女が俺のような旅行者ではなく、長い間このアガルタで生活しているのだということがわかる。

案内されたのは畳10畳ほどで、ベッドも椅子もテーブルもない、だだっ広いだけの部屋だった。まあいい、屋根と壁さえあれば十分だ。俺はリュックを下ろし、部屋の真ん中に寝転がる。アガルタに到着して以来、いや、日本を発って以来、初めて落ち着くことができたような気がする。たまった全身の疲れが、冷たく埃っぽい木張りの床へ、吸い込まれるように流れていく。さっきはありがとう、本当に助かった。俺が言うと、女性は部屋の窓を開けながら、いえいえ、こちらこそ、と返す。

起き上がり見ると、彼女も部屋の隅に自分の荷物を置き、座ろうとしている。今日はタダで泊まれる場所が見つからなくて困ってたの。笑いながら言い、彼女は俺にウインクをしたのだった。

 

さあ、今日の話はここまでだ。

時計の針はもうすぐ23時を指そうとしている。この物語のたった1人の小さな観客は、俺の腕の中で目をこすりながら、えー、と小さく言った。もっと聞かせてよ、パパとママのお話。俺は彼の肩まで布団を掛け直し、その小さな体を抱き寄せる。

続きはまた明日、だ。明日は、そうだな、特別に、パパとママが伝説を追ってシャンバラの山へ向かった所まで聞かせてあげよう。

ほんとうに?

ああ、お前が話の途中で眠くならなければ、な。

長く、退屈な昔の話さ。誰に言うわけでもなく呟き、俺は天井を見上げ、遠い世界の果てでの出来事に想いを馳せる。窓の外では、秋の虫が鳴いている。こちらの世界には、四季があり、夜がある。

そうして俺は思うのだ。今は無き、地底都市アガルタ。伝説のシャンバラの黄金の山々。世界の果てで彼女と過ごした、あの幻のような時間。あれは本当に、現実のものだったのだろうか、と。

信号機と夜

一体、どんな権利があってお前は、俺の歩みを妨げることが出来るんだ。

赤く光る歩行者信号に向けて、俺は言う。

何の権利もないさ、俺にはな。あんたが勝手に立ち止まっているだけだろう。

深夜2時の交差点。車の通りは全くない。

顔も知らねえようなどこかの誰かが、そう決めたんだろう?赤信号は止まれ、と。

信号機は、淡々と言う。

そうしてあんたは、大昔にママに言われたその、どこかの誰かが決めた言いつけを忠実に守り、何の意味もなく立ち止まっている。滑稽だよ、今のあんたの姿は。周りを見てみろよ、一体、何の危険がある?この世界には、あんたしかいねえじゃねえか。

信号機は、未だに闇の中で、静かに赤い光を放っている。俺は子犬のように立ち止まり、そして信号機を見上げている。

あんたたちは、考えることを俺に任せたせいで、自分自身で安全か危険かの判断すら出来なくなっちまったみたいだな。まったく愚かで、哀れな生き物だ。それで本当に生きているつもりか?自分で何も判断せず、どこかの誰かが作ったルールの上で、マニュアル通りに、ただ時間を消費するだけの行為を、生きていると言えるのか?

信号機が青に変わる。俺は横断歩道を歩き出す。

なあ、あんたは誰だ?一体、何のために生きている?それさえも、わからなくなっちまったんじゃねえか?いっそ、死んじまえよ。どうせ生きてる価値なんてねえんだ、家畜と同じだ。

うるせえ。短く返し、歩き続ける。

あんたの人生を窮屈にしているのは、どこかの誰かが作ったルールじゃねえ。そんな、守る必要も価値もないクソと同じものを、何の疑いも持たずに忠実に守り続けている、あんた自身だ。

横断歩道を渡りきった俺の背中に、信号機は、言葉を投げ続ける。

周りを見てみろよ、みんな忠実にどっかの誰かがひり出したクソを守ってやがる。それで生きているつもりでいるんだ。生かされているだけだってことに気づかずに、な。あんたはそれでいいのか?そんな、イかれた奴らに合わせて生きていていいのか?自分で決めろ、自分で生きろ。あんたの人生の進む道を決めるのは、あんた自身だ。ママの言いつけや、夜中に光る信号機じゃなく、あんた自身の心だ。

俺は立ち止まり、道沿いの花壇からレンガを拝借し、信号機へ投げつけた。レンガは歩行者信号の下段、止まれを意味する赤い部分に命中し、俺の足を止めさせていた赤い人間は、火花を上げてバラバラに飛び散った。

信号機は、もう何も言わない。

俺は、夜道を進む。道標は、もうない。俺の行く道を遮るものも、だ。

8月31日

夏の終わり。涼しく心地いい風と、静かなひぐらしの声に乗せて、どこからか、秋の匂いがする。俺はこの、夏と秋の間の、ほんの一瞬の季節が好きだ。

山中にある静かな墓園。数年前に開かれたそこには、すでに多くの人間が眠っている。先祖を大切にするような、立派な信仰心は持ち合わせていないが(と言っても、その墓には一人しか入っていないが)墓地特有のあの厳かな空気感が好きで、俺はよくその場所を訪れる。訪れる人々は皆、眠っている人間を起こさないように、静かな声で話し、そして昔を思い出すように手を合わせ、目を閉じる。蝉や鳥さえも、どこか控え目に鳴いているように思える不思議な空気感は、俺の心を落ち着かせた。

そんな、この世とあの世の境目のような、現実世界の喧騒から少し離れた場所で、山々を眺めながら澄んだ空気を胸いっぱいに吸い込む。そうすることで、誰にも何にも邪魔されず、自分を、少し離れた場所から見直すことが出来る。自分が多くの物を見失いかけていることに気づくことが出来る。人生において、そういった時間は大切だ。吸い込む空気に、懐かしさが混じる。もう、夏が終わるらしい。

墓園を抜け、しばらく山を登った場所に、小さな観光果樹園がある。今年の春先に、行き先もなく車を走らせていた時にたまたま見つけたその場所は、今では俺の一番のお気に入りの場所になっている。やたらと広いガラガラの駐車場に車を止め、コーヒーを飲むバイク乗りたちを横目に、薄れた観光マップを見る。果樹園、芝生広場、バーベキュー場、芋畑、ジャングルジム、展望台。この場所をこれまでに、何度か訪れたが、俺は未だに、芝生広場とジャングルジムを見たことがない。

まあいい、俺がここに来る目的は一つだ。分かれ道を、右側、展望台と書かれた看板の向く方へ向かって歩き出す。急な階段を上がり、ゆるい坂道に入ると、木々が太陽の光を遮り、体感温度が一気に下がる。階段を上って少し汗ばんだ頬を、冷たい風が心地よく撫でる。雑に舗装された山道を進みながら、俺は今年の夏のことを考えていた。

遠くに、牛の鳴く声が聞こえる。四方からは、夏の終わりを惜しむように鳴く蝉の声が響き、木々の間から差し込む木漏れ日は、まるで万華鏡のように一瞬一瞬の内に形を変えながら、俺の歩く道を照らしていた。夏が時折見せる、この幻のような景色は、俺の心に漠然とした不安を落とす。

今思うと、その不安は昔からずっと感じていたもののような気がする。真夏の昼間、虫網を手に走り回っていた頃。ふと、足を止めると、空に浮かぶ雲は流れを止め、風も止み、蝉の声だけが異様に大きく聞こえる。まるで、夏という名の無機質でどこまでも広い部屋の中に閉じ込められたような、そんな漠然とした不安。夏に飲み込まれそうになる、と言えばいいのだろうか。とにかく、恐怖とは別の不安を感じ、その度に俺は来た道を走って帰り、家の近くまで来た時にようやく、町を歩く人々や道路を走る車を見て安堵していた。振り返ると、遠くアスファルトの道に陽炎がたち、そいつはまるで、その閉じ込められた夏の空間から俺をじっと見つめているようにも見えたのだ。

そんなことを思いながら歩き続け、ようやく俺は目的の展望台へとたどり着いた。屋根もベンチも無く、展望台と呼ぶにはあまりにお粗末に思えるが、それでもここは俺の一番好きな場所だ。手すりに手をつき、景色を眺める。左手には深くどこまでも広がる緑の山々が、右手には遠くを流れる一級河川が輝き、その周りに家や道路が小さく見える。大きく息を吸い、空を見上げると、視界の全てが空の青に変わった。太陽がジリジリと俺の肌を焼く感覚が伝わる。実は夏は終わらないんじゃないか、そんな気さえしてきた。

また来たのね。

ふと、そんな声がして、俺は視界を戻す。どこまでも広がる夏の景色の中、いつの間にかそいつは、俺の横に立っていた。ああ、今日はお前に別れを言いに来た。俺が言うとそいつは小さく笑い、そう、とだけ言った。

そいつと出会ったのは、7月の中頃、初めてこの展望台まで登った時のことだ。そいつは今と同じように、いつの間にか俺の隣に居て、そして自分のことを、夏と名乗った。

 この夏、俺は何度かこの展望台を訪れ、そして彼女と他愛のない話をして時間を潰した。場所のせいか、暑さのせいか、彼女と過ごす時間はまるで、水の中で目を開いた時のような不鮮明で、幻想的で、現実とは違う不思議な時間だった。

 律儀な人ね、わざわざ別れを言いに来た人は、あなたがはじめてよ。遠くを眺めながら言う彼女の髪を、風が揺らす。夏が終われば、君はどうするんだ。俺が聞くと、彼女は笑い、返す。おかしな人ね、もう答えを言っているじゃない。私は夏よ、夏が終われば私も終わる、それだけよ、と。

冷たい秋の風が俺たちの間を通り抜け、木々を揺らす。寒いわ、と、隣で彼女が言った。

知ってるか、8月はもともと、30日までしかなかったんだ。俺は展望台の手すりに背をもたれかけ、彼女を見ながら言う。大昔、夏に恋をしたバカな男が、神に言ったんだ。彼女に別れを告げるための日を作ってくれ、とな。最初、神はふざけたことを言うなと一蹴したんだが、あまりに男が熱心に頼み込むもんで、最後は根負けして、そして1日だけ、8月をはみ出させたんだ。それが今日、8月31日さ。彼女はいつものように、大して興味もなさそうな風に俺の話を聞き、そして、素敵ね、とだけ言った。

見て、夏が終わるわ。彼女が、沈む夕日を指差し、言う。私、この瞬間が一番好きなの。今日も楽しかった、もう少し遊びたかったけれど、それはまた明日ね、って、そんな風に考えながら帰るの。

なあ、また来年もここに来れば会えるのかな。

俺の問いに、彼女は首を横に振った。夏は毎年来るけれど、今年の夏は私だけよ。そうだろうな、とは思っていた。そして、覚悟も。

もう少し。遠く、沈む夕日を見つめながら、彼女は小さくそんなことを言った。俺は、そんな彼女を、抱きしめる。

太陽が沈む。8月31日が、夏が、終わろうとしていた。

ダメよ、ここから先には私は行けない。彼女が俺の手を解き、そして手のひらで俺の胸を押す。嫌だ、と俺は言い、その手を掴む。一瞬、最後の輝きを放ち、太陽は遠く地平線の果てに消える。と、同時に、その果てから黒い波が押し寄せて来る。ああ、あれがたぶん、夏の終わりなのだろう。

離して、このままだと本当にあなたまで。抵抗する夏をもう一度抱き寄せ、俺はその唇にキスをした。その瞬間、俺の頭の中に、夏の記憶が流れ込んで来る。

太陽、空、雲、蝉の声、海、砂浜、陽炎……色々なものが頭を駆け抜け、そして最後、俺の前には驚いた顔で俺を見つめる夏の姿があった。

黒い波は、山々と、川と、町と、車と、人々と、蝉と、鳥と、全てを飲み込み、もう俺たちの足元にまで迫っている。夏は頬を赤く染め、そして、本当にバカな人、と言った。

待っていれば、来年も夏は来るのよ?

でも、今年の夏は君だけなんだろう?

黒い波は、今にも俺たちを飲み込もうとしている。世界のほとんどが、もう、闇に包まれていた。本当に、夏が終わる。俺たちは抱き合い、そしてもう一度、キスをした。

海の中から太陽を見上げた時のような、そんなぼんやりとした光の中。暖かさが俺を包む。

さっきの話には、続きがあるんだ。夏に恋をした男の話さ。そのバカな男は結局、夏と別れられず、2人で神のところに行ったんだ。そして頼んだ、夏を終わらせないでくれ、とな。神は怒り、だったら好きにしろと、2人を永遠の夏の中に閉じ込めたんだ。それが彼らにとって幸せなことなのかどうかはわからない。だが、その永遠の夏は時折、陽炎として俺たちの世界に並んで現れることがある。あの漠然とした不安は、終わらない夏に閉じ込められることに対するものなのかもしれないな。

相変わらず、話が長いわね。

彼女が言う。

いいじゃないか、時間はまだまだあるだろう、それこそ、永遠と言えるほどにさ。

俺たちは手を取り、そして、歩き出す。

終わらない、永遠の夏の中を。

 

もやもや

イライラする。

ここ数日、ずっとだ。何か心の中にもやもやとしたものがあり、そいつがずっと、俺を苛立たせる。そいつが一体何者なのか、どこから来て何のために俺の中に居るのか、その理由がわからず、そのことが余計に俺を苛立たせていた。

俺は、苛立ちや悩みや悲しみや、そういったできるだけ考えたくない感情をずっと昔に切り離して生きてきた。生きてきた、はずだった。だからいつだってへらへらと笑っていたし、落ち込むことも涙を流すこともなかったのだ。それなのに、この心の中に現れたもやもやは、一体なんなんだ。

ずっと、苛立ちを感じずに生きてきた俺は、その解消の仕方を知らない。

聞いた話によると、好きなことをすればストレス解消になるらしい。それなら得意だ。それに、そんなこと、簡単すぎる。好きなことをして、その上、この苛立ちも解消できるというのなら、まさに願ったり叶ったりである。とは思ったものの、いざ、好きなことをしろと言われても、そう簡単にはいかない。俺が心の中から好きと言えることは、そう多くはないのだ。言葉を書くこと、それから、戦うこと。あとは、バーベキューくらいしかない。

消去法で考えると、戦いとバーベキューは相手や仲間がいなければできないことなので、簡単には出来ない。となると、言葉を書くことが最も簡単に思えるが、苛立っている時に書く文章なんてものは、クソだ。読み返して更に苛立つことは目に見えている。言葉には感情が宿るのだ。たとえ、こんな世界の誰も読んでいないようなブログの、くだらない記事の中にあったとしても、だ。

また、振り出しに戻ってしまった。俺の中にいるもやもやとしたそいつは、相も変わらず、心の中をぐるぐると、時折、壁にぶつかりながら、回っている。俺は、水槽の中を泳ぐ魚を見るように、心の中のそいつを見つめる。そして気づく。そいつはただがむしゃらに暴れているだけではない。まるで、何かを振り払うような、何かから逃げるような、何かに助けを求めるような。そんな暴れ方をしているのだ。

もういい、面倒だ。

俺は大きく深呼吸をし、雨上がりの湿気を含んだ冷たい空気で心を満たす。そして、心の中に手を突っ込み、おもむろにそいつを掴み上げた。もやもやしたそいつは、俺の手から抜け出そうとバタバタと手足のような何かを振り回すが、俺はがっちりと掴んだまま離さず、そのまま洗面所へ向かい、蛇口を目一杯捻り、そいつを水の中に突っ込んだ。

 必死に暴れて逃げようとするもやもやを押さえつけ、怒りに任せ、水の中でゴシゴシとこする。流れる水がドス黒く濁る。いったい、なんなんだこいつは。嗚咽が漏れる。黒く汚れたそいつを洗いながら、俺は、泣いていた。

子どもの頃、怒り狂った親父に昆虫図鑑を投げられ、それが顔に当たりとんでもない量の血が出たことがある。その頃も、今と同じように、血まみれになったタオルを俺は泣きながら洗っていた。あの頃、俺はよく泣き、よく怒った。力いっぱいの大声で怒り、そして顔をくしゃくしゃにして泣きじゃくり、生きていたのだ。そう、あの頃の俺は、人間として、生きていた。

水の濁りは消えるどころか濃くなっていき、俺はムキになりながら、力任せにゴシゴシとこすり続ける。目からは涙が溢れ続けていた。その水の淀みが一体なんなのか、このもやもやがどうして俺の心の中に居たのか。俺はその時、ようやく気付いた。そして、気付いた頃には、そいつのもやもやはすっかり流れ落ち、流れる水は透明になっていた。

俺の手の中で、子犬のように震えるそいつは、猫のような鳥のような、蜥蜴のような、不思議な生き物だった。迷ったのか?俺が聞くと、そいつはビクッと体を震わせ、威嚇するように声を上げる。俺は蛇口の水を緩め、冷水に湯を混ぜる。暖かいお湯で身体を流してやると、そいつは目を細め、少し安心したように息を吐いた。もう大丈夫だ、何も心配いらない。俺が言うと、そいつは不思議そうに首をかしげ、俺を見つめるのだった。

こいつがどこから来たのかはわからない。だが、あのもやもやの正体はわかる。あれは、俺が消し去った気になっていた、苛立ちや悩みや悲しみ、そういった心の中の埃だ。俺がベッドの下や本棚の裏や、クローゼットの中や、引き出しの奥にしまいこみ、綺麗に片付けた気になっていた汚れだ。それを、どこからか迷い込んだこいつが、いつの間にか集めて、苦しくなって暴れていたのだ。ごめんな。俺は、ドライヤーでそいつを乾かしながら、言う。

もし、こいつがいなければ俺はどうなっていたのだろうか。これまでと同じように、苛立ちや悩みや悲しみや、そういった考えたくないものを、ベッドの下や本棚の裏にしまいこみ、忘れた気になりへらへらと人生を生きていたのだろうか。そうして積み重なった黒い心の埃たちは、ある時、一気に溢れ出して俺の心を壊していたかもしれない。すっきりとして伸びをする、そのよくわからない生き物を、俺は再び自分の心の中にしまった。そうして、今度は自分に言い聞かせるように言う。もう大丈夫、心配いらない、と。

苛立ちや悲しみといった負の感情は、人生を生きる上で欠かせないものなのかもしれない。俺は、その感情を、もう、上手く感じることが出来ない。そうすることで、上手く生きているような気になっていたのだ。しかし、そうじゃなかった。そのことに、ようやく気付いた。黒い埃に心を壊される前に、気づくことができた。

だからと言って、何かが変わったわけでもない。俺は相変わらず、苛立ちの解消の仕方がわからず、心の中の見えない場所に隠すだろう。そうすることしか、出来ないのだ。しかし、ほんの小さな変化であったとしても、心においては水面に投げた石の波紋のように、静かに、それでいて確実に広がり、やがて大きな流れとなる。

いつか、俺もあの頃と同じように、もう一度、力強く生きることが出来るだろうか。それはまだわからないが、これからは、もう少しだけ“嫌な奴”になってみることにしようと思う。

 

雑巾をしぼる

 引越しをして、部屋がフローリングになったので、掃除の際に、これまではすることのなかった部屋の床を雑巾がけするという行為が追加された。

ズレたテーブルを戻し、漫画本を本棚に並べ直し、脱ぎっぱなしの部屋着を気持ち程度に畳んで椅子の上に置く。これだけで俺の部屋の整理は終わりだ。あとは床の埃を箒で掃き、それから待ちに待った雑巾がけである。学生時代以来、約4年ぶりの雑巾がけであった。

が、当然の事ながら、新築数ヶ月で1人の男が暮らしているだけの部屋の床が学校の教室の床ほど汚れているはずもない。久しぶりの雑巾がけは、シャー芯を引きずって出来たであろう芸術的な線や、いつの間にか存在していた謎の黒ズミや、気になるあの子のものかもしれない長い髪の毛や、黒板の溝を拭いた奴が落とした虹色のチョークの粉に悩まされることもなく、あっという間に終わってしまった。あの頃に戻れると期待していただけあって、少し肩透かしを食らった気分ではあったが、掃除というこの上なく面倒な行為が早く終わるに越したことはない。俺は綺麗になった床を誇らしげに確認し、足跡をつけないようつま先歩きで部屋を出た。

ゾウのキンタマをしぼったことがあるのか。

使用した雑巾を洗いながら、俺は、そんなくだらない言葉を思い出していた。小学生の頃に流行った、くだらない揚げ足取りの遊びだ。

雑巾をしぼったことがあるか、と聞き、あると答えると、ゾウのキンタマをしぼったことがあるのかと言い、ないと答えると、雑巾をしぼったことがないなんてありえないと言う。本当にくだらない、ただ単に相手に苛立ちを与えるだけの遊びである。小学生の頃は、こういったくだらないものがよく流行った。

雑巾をしぼったことがある?

理科、ちゃんと勉強してる?

ねえ、ちゃんとお風呂入ってる?

まったく、くだらない。雑巾をしぼり、俺は思わず、ふふっと笑った。

そもそも、だ、ゾウのキンタマをしぼるなんてことを、実行した人間は存在するのだろうか。いくら温厚な性格のゾウであっても、さすがにキンタマをしぼられると怒るだろう。怒ったゾウを前に、人間は余りに非力である。たとえ、弱点であるキンタマを握っていたとしても、だ。鞠玉のようにポンと蹴飛ばされてお終いだ。そうまでして、ゾウのキンタマをしぼることに、一体なんの意味があるというのだ。得られるものと言えば、せいぜい、スリルと、“ゾウのキンタマをしぼったことがある人”という称号だけである。リスクに対してのリターンがあまりに小さすぎる。

しかし、そこまで考えが至らないのがバカな小学生である。いや、それは当然の事である。単なる言葉遊びなのだ。真面目に考える方がむしろ、バカなのだろう。得意げにこのくだらない質問を投げかける奴も、理不尽にバカにされたことにムキになって怒る奴も、どちらもバカである。そして、悲しいかな、あの頃の俺も、そんなバカな小学生の一人だった。

2005年。夏休みを利用し、一路、南アフリカへ飛んだ俺は、ケープタウンで一夜を過ごした後、カパマ私営動物保護区へ入った。目的は、もちろんアフリカゾウだ。過酷な道中で、通訳がマラリアに侵され死んだ。言葉は通じなかったが、俺の目的に共感してくれていた案内人のティンは、しっかりとその役目を果たしてくれた。

ジープに乗り、広大なサバンナを進むこと2日目。夕暮れの陽炎の中、俺たちは数頭のアフリカゾウの群れと遭遇した。逆光に黒く輝く影は、雄大で力強く、本物の命の強さを放っているように見えた。日が暮れる、決行は明日の朝にしよう。ティンが言った。幾つもの死線を越え、俺とティンは言葉は無くとも心で会話することが出来るようになっていた。 

昼間の地獄のような暑さとは打って変わり、サバンナの夜は冷え込む。俺たちは毛布に包まり、満天の星空を眺めていた。なあ、なぜお前はゾウのキンタマをしぼりたいんだ。ティンが聞く。俺は小さく笑い、意地さ、と応えた。まったく、くだらない意地で、地球の反対側まで来ちまったもんだ。決行は明日。俺は、震えていた。寒さにではない、怖かったのだ。いざ、目にした象の群れ。彼らの生命の強さを前に、俺のくだらない意地は本当に、小さすぎた。ティンが俺の背を叩く。彼もまた、小さく震えていた。

夜が明けると同時に、俺はティンの声で目を覚ます。ティンは興奮した様子で象の群れを指差していた。俺は寝ぼけ眼のまま、手渡された双眼鏡を覗き込む。そして、一気に目が覚めた。

ライオンだ。二頭のメスライオンが、アフリカゾウの子どもを襲っていたのだ。素早い動きで子ゾウに襲いかかるライオンと、子を守る為に吼える数頭の大人のゾウ。まさに、死闘であった。ティンがジープのエンジンをかける。あの興奮状態の群れに突っ込むのは危険すぎる。止めようとした俺に対し、ティンが叫んだ。チャンスは今日しかないんだ!!確かに、ジープの燃料も水も尽きかけており、滞在できるのは今日が最後だった。俺はティンを見つめ、そして、覚悟を決めて頷いた。

砂煙を上げ、走るジープ。 その先には、ライオンと死闘を繰り広げるアフリカゾウの群れ。俺たちは、群れの中で一番大きな雄ゾウへターゲットを絞り、その真後ろへジープを停めた。ゾウはライオンに気を取られている。俺は荷台から飛び降り、ゾウの股座へ飛び込んだ。

一瞬、一瞬だった。時がゆっくりと流れ、周りから音が消える。いつ死んでもおかしくない状況ではあるが、俺の心は落ち着き、ゆっくりとした鼓動を響かせる。目の前に、巨大な生命の象徴が現れる。ああ、これが本物の、ゾウのキンタマか。俺は大きく息を吸い、キンタマを両腕で抱え、そして、思いっきりしぼった。

パオーン

ゾウの叫びのような声が響き渡り、ゆっくりと流れていた時が再び動き出す。ライオンに気を取られていた雄ゾウの目がこちらを向く。その目は怒りに満ち溢れていた。俺が駆け出すと同時に、先ほどまで俺の立っていた場所に巨大な牙が突き刺さる。あと一瞬遅ければ、死んでいた。いや、次の瞬間に死んでもおかしくない。俺は死に物狂いで走り、ジープの荷台に飛び乗った。と、同時に、ティンが思い切りアクセルを踏み込んだ。

ジープの荷台に仰向けに寝転がり、空に浮かぶ雲が後ろへ流れていく様を見上げる。腕も足もちゃんと2本ずつ付いている。生きてる。俺は、生きてるぞ。自然と笑いが溢れる。運転席に座るティンも声を上げて笑っていた。起き上がり、後ろを振り向くと、はるか遠くにアフリカゾウの群れが見えた。俺は両腕を空に掲げ、そして雄叫びを上げた。広大なサバンナに、俺たちの雄叫びと笑い声が、いつまでも響き渡っていた。

数日後、帰国するとほぼ同時に新学期が始まった。休みのほとんどを南アフリカで過ごしていた俺は、夏休みの宿題をまったくやっておらず、結果、罰として居残り掃除をさせられることとなった。

雑巾をしぼったことはある?

頭の悪い級友が、ニヤニヤしながら、何十回目にもなる質問を俺に投げかける。俺は洗った雑巾を干し棚にかけながら、小さく笑って答えたんだ。

もちろんさ。

知ってるか、ゾウのキンタマってのは、あったかいんだぜ?

 

七夕の夜

七夕の夜には、ジャックダニエルを飲む。

酒は好きじゃない、特にウイスキーは。あの口に広がる、正露丸を噛み砕いたような不快感。喉が熱くなり奥から込み上げてくるものを飲み込むと、しばらくして軽い頭痛と眩暈がやってくる。気分が悪い。グラスをテーブルに置き、目を閉じる。酒は好きじゃない、特にウイスキーは。しかし俺は、ジャックダニエルを飲む。あの七夕の夜、あいつのことを思い出しながら。

その夏、俺は、日本海が一望できる小高い丘に建つ民宿に身を置いていた。漁師であり料理人である無口で頑固な親父さんと、人当たりが良くちゃきちゃきと動く奥さんの2人で切り盛りされる居酒屋兼用の民宿。その二階の一室を、俺は借りていた。2人の孫である女学生がたまに手伝いに来ており、彼女は暇を見つけると俺の部屋に入り込み、星の話を聞きたがるので、2人で朝まで星を眺めながら話したこともあった。

俺は、死に場所を探していた。仕事を辞め、なけなしの貯金を全額下ろし、二本の足でいろいろな物を見ながら歩いた。腹が減ると何かを食べ、眠りたくなると外でも眠った。自由がどんなものなのか、それを知りたくて、ただ思うがままに時間を生きた。その結果、数ヶ月で貯金はほとんど尽き、ふらふらと辿り着いたこの、世界の果てのような静かな時の流れる町で、誰にも知られずに死のうと、そんなことを考えていた。

あいつと出会ったのは、そんな8月9日の夕暮れ時。ちょうど、七夕祭りの日のことだった。

その日はいつものように昼に起き、少し本を読み、それから夕方までまた眠って過ごした。遠くに聞こえる祭囃子で目が覚め、今日が七夕祭りだったことを思い出す。そういえば、女学生にしつこく誘われていたのだった。時計を見ると時刻は18時を少し過ぎたところ。まだ少し余裕がある。煙草を吸おう。彼女の前で吸うとまた、健康に悪い、などともっともな言葉でどやされる。

部屋を出て、ベランダへ向かうと、そこで、見慣れない男と出会った。夜空のように澄んだ黒の髪に、星のような深い藍の目をした20代くらいの男。そいつは俺を見もせずに、見たこともない銘柄の煙草を吸い、橙色の空に不思議な匂いの煙を吐き出していた。

狭いベランダだ。俺はそいつの隣に並び、自分の煙草に火を付けようとする、が、そこでライターを部屋に忘れて来たことに気づく。舌打ちを一つ、咥えた煙草を口から離したとき、そいつは小さく笑って、マッチを差し出してきた。茶色地に白字でホテル“デネブ”と書かれた、なんとも古臭いマッチだったが、火がつけば問題ない。俺は何も言わず手で礼をして、マッチを受け取り、火をつけた。懐かしい音とともに、リンの焦げる匂いが一瞬広がる。煙を吸うと、不思議な味がした。

あんた、そこに部屋を借りてるんだろ。そいつは相も変わらず俺の顔を見ずに言う。ああ、お前は?俺が聞くとそいつは、あんたと同じさ、と言った。石炭袋で落っこちて、死に場所を探してふらふらと、さ。そいつは初めて俺の顔を見て、ケケッといかにも愉快そうに笑った。

隣の部屋は空き部屋だったはずだ。とすると、こいつは新しい同居人ってことか。おかしな男だが、嫌な気はしない。不思議な空気を持っていた。

今日は七夕祭りらしい、お前も行くのか。俺が言うと、あいつは町の方を見て、小さく、いや、と呟いた。そして、今夜はきっと星がよく見える。と、そんなことを言った。

こんなところにいたんですね。浴衣を着た女学生が、いかにも不快そうな顔で、煙草を吸う俺のことを見ながら言った。もう時間か。俺は慌てて煙草の火を消し、すぐ準備する、と言う。となりであいつが、手をひらひらとさせながら、ケケッと笑った。

あの人、お知り合いですか?祭囃子へ向かって歩きながら、女学生が俺に問う。意外だった。彼女は知っているものと思っていたが。たぶん、新しい同居人だと思うけど。俺が答えると、彼女は首を傾げ、そんな話、聞いてませんけど、とそんなことを言った。だったらあいつは何者なのだろうか。泥棒だったらどうしましょうか。いや、それはないだろう。どうしてです?俺の前に立ち、彼女は言った。長い髪と紺色の浴衣が揺れる。俺は一瞬足を止め、彼女の目を見つめ、それからすぐに目を逸らし、再び歩き出しながら答える。あいつは、石炭袋で落っこちたらしい、と。

祭りは、とても良かった。人も、飾りも、出店も、全てが淡い光に包まれ、まるで夢の中を歩いているような、そんな気分になる。思えば、祭りに来たのは随分と久しぶりのことだった。子どもの頃は、その特別な行事が大好きだった。夢のような不思議な空気の中、俺の手を握る親父の大きな手。人々の話し声、足音、祭囃子。砂で汚れたスニーカー、食べきれなかったりんご飴。そんなことを考えていると女学生が不意に俺の手を取った。驚いた顔をしていたのだろう、女学生は楽しそうに笑い、そうして俺の手を引いて駆け出した。人々の声が、光の泡のように生まれては後ろへ流れて行く。ぼんやりとした景色の中で、前を行く彼女の紺色の浴衣だけがはっきりと見えていた。

帰り道。すっかり日の暮れた海沿いの道を、俺たちは仮の故郷へ向かって歩く。潮の匂い、雪駄の足音、涼しい夜風。懐かしい空気は、遠く離れた見知らぬ町でも変わらず、俺の鼻の奥を突く。世界の終わりは、きっとこんな穏やかな日に、訪れるのだろう、そんなことを考える。緩やかなまどろみの中での眠りのように、重く、心地よく、ゆっくりと、夕日とともに沈むように。

寂しいな、と、前を歩く彼女が言った。楽しいけど、寂しい。その気持ちは、よくわかる。祭りの帰り道というものは、そういうものだ。淡い光の中から出てしまうと、そこはもう、現実と孤独の世界だ。夢は覚める。楽しい時間には必ず終わりがある。

一階の居酒屋は、大盛況だった。俺は邪魔をしないように裏の階段から二階へ上がり、部屋へ戻ろうとして、ベランダに人影があることに気づく。あいつは、夕方と同じように、空を見上げて煙を吐いていた。

 星はどうだ?隣に並び、俺が言うと、あいつは何も言わずに夜空を指差した。本当に、綺麗な星空だった。雲一つない澄んだ夜空に輝く星々と、その間を流れる天の川がはっきりと見えていた。俺たちは何も言わず、ただぼうっと、煙を吐き出しながら、その美しい星空を2人、見上げていた。

あんた、どうして死に場所を探してんだ。不意に、あいつが言った。その手には、いつの間にかウイスキージャックダニエルの瓶とグラスが握られている。どうしてわかるんだ?俺が聞くと、あいつはまたケケッと笑い、ウイスキーの蓋を開けながら、ここにいるってことはそういうことだろう?と、言った。

七夕の夜にはジャックダニエルを飲むんだ。グラス半分に注いだぬるいウイスキーを一気に飲み干し、あいつは顔をしかめながらそんなことを言った。星の川のほとりで、遠くの岸を見ながらさ。

なんでジャックダニエルなんだ?

彼女が、好きだったんだよ。だからさ。きっと彼女も向こう岸で飲んでるはずさ。

恋人か?

大切な人さ。今は、会えないけどな。そう言ってあいつは、遠くの誰かに向けるように、グラスを空へ掲げた。

なあ、知ってるか。星ってのは、少しずつ動き続けてるんだ。だから、生きていればいつかきっと会える。途方もない時間がかかるかもしれないが、きっと、また、必ず、この宇宙のどこかで。

あいつは再びグラスにウイスキーを注ぎ、今度はそれを俺に渡した。

あんたが何を思って死に場を探してるかは知らねえが、どうだ、考えてみろよ、あんたは今、どこにいる?ここはどこだ?あんたは誰だ?

ここがどこで、俺が誰なのか。あいつの深い藍の瞳に、心を見透かされているような気がする。俺はグラスのジャックダニエルを一気に飲み干す。ぬるい苦味が口に広がり、喉が一気に熱くなる。

ここは、どこでもないし、俺は誰でもない。

そう、あんたは死んだんだ、この町で、さ。ケケッと笑い、あいつはボトルのままウイスキーを一口飲んだ。

今夜はうまい酒が飲めた。あんたのお陰だ。

時刻はもうすぐ0時を迎えようとしていた。遠くの祭囃子もすっかり聞こえなくなり、波の音と俺たちの話し声だけが星の輝く夜空へ吸い込まれていく。

なあ、お前、名前は?俺が聞くと、あいつは俺に背を向け、ドアを開き、名乗る必要はないさ、と言った。それより、お待ちかねだぜ?同じようにまたケケッと笑い、あいつは空き部屋ではなく裏の階段へと向かって行った。あいつを追おうとベランダを出た俺は、扉の前で居心地悪そうに立つ女学生の姿を見つけ、足を止めた。浴衣から、シャツとジーンズ姿に着替えた彼女は、今にも泣き出しそうな顔で俺を見ていた。

今夜は星がよく見える。俺が言うと、彼女は恐る恐るベランダへ出て、夜空を見上げる。天の川を挟んで見える織姫と彦星の輝きが、少し近づいているように見える。

 どこかへ、行っちゃうんですか。彼女が震える声で言う。俺は何も言わず、煙草に火を付ける。彼女はわざとらしく咳をし、健康に悪いですよ、と言った。

なに、生きていればまた会えるさ。夜空の星だって、少しずつ動いてるらしいからな。

ちゃんと、生きてくれますか?

ああ、生きるさ。俺が答えると、彼女は俺の胸に顔を埋めるようにして、その小さな体で俺のことを抱きしめた。そして、小さく、約束ですよ、とそう言った。

俺は彼女の背中に腕を回し、ああ、約束だ。と、そう答えた。

 

それから何年もの月日が流れ、今、俺は新たな地で働きながらなんとか生きている。そう、ちゃんと、生きている。あれ以来、あの民宿には一度も行っていない。当然、彼女と会うこともない。

しかし、いまだに俺は七夕の夜にはジャックダニエルを飲み、そしてあの夜の夢のような時間を思い出すのだ。

夜空に輝く織姫と彦星は、あの時よりも更に近づいているように見える。俺は空へグラスを掲げ、ぬるいジャックダニエルを一気に飲み干した。

俺と彼女はいずれ、どこかでまた出会うだろう。たとえこの広い宇宙の中で離れ離れだったとしても、生きていれば、いつか必ず、どこかで。

サザンクロスは冬の星座だ。

もう少しだけ、この世界で生きていこう。