かきかたの本

書き方の練習

さいたまのスポボブ

昔の女の話をしよう。

薄暗いバーのカウンターの隅で、ウィスキーを飲みながら。ジャズをBGMに、どこか遠くを見つめたりなんてしながら、さ。

俺はそういうことが“かっこよさ”だと思っている。思っているが、生憎、俺は酒が飲めないし、ジャズなんて聞く柄でもない。それに、まだ22の若造であり、かつ、学生時代に暗い青春を過ごしていた俺に、そんなニヒルに構えて話せるような女性との思い出話なんてものはない。

ただ、一人。

忘れられない女がいる。

なに、ただの昔の思い出話さ。かっこよさとはかけ離れた、暗い青春時代の俺の、一夜限りの恋。雨の夜に似合いの、退屈でくだらない男の昔語り。今夜はそんな、彼女の話をしよう。

 

7年ほど前の話になる。その頃、俺はとあるチャットサイトに入り浸っていた。AAチャットという、自分の好きなAAをアバターとして使い、吹き出しで会話するタイプのチャットサイトだ。そのサイトには定員10名の部屋が数十あり、俺はその中の“さいたま”という部屋にほぼ毎日のように顔を出していた。常連や古参と呼ばれる、昔からいるらしい人々とは一切関わらず、日々入れ替わり立ち替わり来る新たな顔ぶれとの会話を楽しんだ。

前述の通り、暗い青春時代を過ごしていた俺は、そのネットの中での人々との会話だけが唯一の楽しみであり、人生であったように思う。といっても、別にイジメられていたわけでも友達がいなかったわけでもない。ただ、退屈だったのだ。同じ顔ぶれの仲間と毎日同じ会話をし、恐らくその先の人生で使うことは無いであろう方程式や英語の構文をノートに書き写すだけの日々。好きな女子には、みんな彼氏がいた。

そんな退屈な日々の中で、そのチャットサイトで過ごす時間だけが俺にとっては唯一の刺激的な時間だった。“さいたま”にはいつも、年齢も性別も住んでいる場所も違う、様々な人々がいた。その中で俺は、小学生から40過ぎのオッサンまで、色々な人との会話を楽しんだ。時には、誰にも相手にされない日もあったし、荒らしや喧嘩師と呼ばれる連中に会話を邪魔されたこともあった。しかし、それを含めても、“さいたま”での日々は本当に面白かった。

ある夜、俺は、いつものようにさいたまを訪れた。部屋には二人の先客がおり、俺は会話を邪魔しないように部屋の隅の定位置に場所を取る。様子見の数名が入室と退室を繰り返したのち、彼女はやってきた。水色の猫のAAで、“スポボブ”という名前だった。彼女は、部屋の真ん中で話す二人の会話をしばらく聞いていたかと思うと、俺の隣にやってきて、そして「こんばんは!」と言ったのだった。

「こんばんはww」

「何歳ですか?」

「14です」

「年下だ!」

「え、何歳ですか」

「2個上だよ!」

「高校生ですか」

「そう!敬語やめて!」

たぶん、そんな会話から始まったのだと思う。ほぼ全ての言葉の後ろに“!”をつけるところが、かわいいなと思った。彼女との会話は、楽しい時間だった。部活や文化祭の話、高校受験の話、兄弟や家族の話、恋愛の話。学校ではしたことがなかった、そんな学生らしい話をたくさんした。顔も見えないし声も聞こえないが、それでも俺は彼女が、きっと素敵な人なのだろうなと、そんな風に思っていた。

「あ、お風呂行かなきゃ!」

23時を少し過ぎた頃、彼女がそんなことを言った。チャットサイトでの会話の終了の合図は、大体がそうだ。風呂に入る、か、寝る、か。頃合いになると、どちらかがそう言って、お開きになる。ああ、楽しい時間も終わりか。話していた時間は2時間ほどだったが、俺にとっては本当にあっという間だった。

「じゃあね!楽しかった!」

「こちらこそ!おやすみ!ノシ」

「おやすみ!」

そう言って、水色の猫のAAは煙となって消える。俺はため息を一つ、ログアウトボタンを押し、PCの電源を切る。風呂に入り、顔も名前も知らないスポボブに、想いを馳せる。また、話したいな。そんなことを思う。楽しい会話をしたのは、彼女が初めてではない。別れを惜しむ日もあった。しかし、こんな風に思うのは、彼女が初めてだった。AAチャットでの出会いというのは、一期一会だ。常連となれば話は別だが、この場所を訪れる人々の多くは暇つぶしか初見かのどちらかだ。一度話した相手と再び出会う可能性は、低い。

しかし、彼女はまだ眠るとは言っていなかった。そう、風呂に入ると言ったのだ。もしかしたら、もしかしたら、風呂から上がって寝るまでの間に、さいたまにまた来るかもしれない。なんて、そんな都合のいいことが起こるはずはない。と、思いつつも、風呂上がり、シャツを着るよりも先に俺はPCの電源を入れる。時刻は12時前。いつもなら、寝る支度をする時間だ。

さいたまを覗いてみて、少し待って、それでも彼女が来なかったら。その時は、大人しく眠ろう。もし、彼女が来たら。その時は、また会う約束をしよう。日にちと時間を決めて、このさいたまで。

 さいたまに入ると、そこに彼女の姿はなく、先ほどの2人がまだ会話を続けていた。そんなに上手くいくはずもないか。バスタオルで髪を拭きながら、2人の会話を眺めていると、見覚えのある水色の猫のAAが姿を現した。名前は、スポボブ。俺は彼女を知っている。

「あっ!」

俺を見つけ、彼女は言う。

「まだいたんだ!」

俺は胸のドキドキを抑え、震える手でキーを叩く。

「おかえりwww」

「ただいま!」

「俺もお風呂入ってた」

「そうなんだ!一緒だね!」

一緒だね。その言葉が、嬉しかった。彼女と同じ時を過ごし、同じことをし、そして今、こうしてまた話している。ただ、チャットサイトで話しているだけ。たまたま同じタイミングでログインしただけ。それだけのことなのに、当時の俺はそれを、まるで運命のようなものと思っていた。まるで彼女と、特別な関係になったような、そんな馬鹿な勘違いをしていた。

それからしばらく話し、彼女はそろそろ眠ると言った。別れを惜しむことはなかった。きっとまた会える。そう思っていた。

また話そうね!

去り際に、彼女はそう言った。今になって思うと、それは単なる社交辞令以外の何でもなく、この数時間も彼女にとっては単なる暇つぶしに過ぎなかったのだと思う。それでも俺は、浮かれていた。また話そうね。そんなことを言われたことは、なかった。

その日、俺はウキウキした気持ちで眠り、そして翌日、部活を終え、駆け足で家に帰り、すぐにチャットサイトへログインする。しかしその日、彼女は来なかった。きっと忙しいのだと、そう思った。そして、次に会う日を決めていなかったことを、少し後悔した。

それから数日、数週間と、俺はほぼ毎日、さいたまで彼女を待った。他の誰かと話すこともあったが、しかし、彼女以外との会話をこれまでのように楽しむことができない。数ヶ月が経ち、俺はそのチャットサイトを訪れることをやめた。

 きっと、もしかしたら、そんなはずは。誰もいない“さいたま”で彼女を待っている間、ずっと、そんなことを考えていた。繰り返し、何度も。そしてようやく気づいたのだ。彼女は、きっと来ないだろう、と。

男子中学生なんてものは、そういうものだ。一人で勝手に想像を膨らませ、浮かれてしまう。そしてある時、現実を知り、打ちひしがれるのだ。悲しいかな、俺も例に漏れず、そんな馬鹿な男子中学生の内の一人だった。

思えば、あれが俺の初恋だったのかもしれない。女子と会話をしたこともない、暗い男だった俺が、初めて楽しく会話をした相手。それがたとえ、チャットサイトの見知らぬ女だったとしても、俺にはそんなことは関係なかった。

きっと、この世界のどこかで生きているであろう今の彼女は、俺のことなど覚えてはいないだろう。もしかしたら、あのチャットサイトの存在さえも忘れてしまっているかもしれない。

それでも俺は、構わない。

俺は彼女の顔も、本当の名前も、住んでいる場所も、何も知らない。しかし、彼女は確かに存在した。7年前のあの日、さいたまに。

今でも俺は、時折、彼女のことを思い出す。夜空を眺めながら、この世界のどこかで生きている24歳の彼女へ想いを馳せるのだ。彼女も同じようにこの夜空を見上げているかもしれない、なんて、そんなことを思いながら。

あの明るい性格なら、きっと恋人はいるだろう。もしかしたら、もう結婚しているかもしれない。子どもがいるかもしれない。なんだっていい。彼女が生きて、幸せになっていてくれれば、俺はそれでいい。

さいたまのスポボブ。

俺には、この世界のどこかに、顔も名前も知らない、昔愛した女がいる。

ボーナスは妹払いで

会社のロッカーで着替える俺に、嬉しそうに話しかけてきたのは、いかにも人の良さそうな初老の男性だ。俺は彼のことを知っているが、彼のことを知らない。

彼とはロッカーが隣だが、顔を合わせることはほとんどない。部署も仕事も違うので、たまにどちらかが残業をしたりして、時間がずれた時にだけ、俺たちは出会う。だが、会う度に彼は、まるで昔からの飲み仲間と会った時のように俺に話しかけてくるのだ。そんな“とたけけ”のような彼の本当の名前も、部署も、年齢も、俺は知らない。だが、俺は彼のことを知っている。きっと、彼の名前や、部署や、年齢を知っている人よりも。

そういえばそうですね、何か使うご予定が?

んー、夕飯のオカズが一品増えるくらいだね。結婚しちゃうとどうしても、ね?

あっはは、まあ、それも一つの幸せですよ。僕は宝くじでも買いましょうかね。

おっ、ボーナス10億!夢があるねぇ。

なんて、そんな楽しい会話をしている間にも俺は、心の隅で、この人は誰だろう、とそんなことを思っている。そして、それが心地よかったりもするのだ。自分のよく知らない相手、自分のことをよく知らない相手。そういった人と話すのは、楽しい。会話の端々に、ちょっとした嘘を織り交ぜたりなんてしたりして、そんな風に純粋に、会話を楽しむことができるから。

水曜日の仕事終わり。束の間の会話を楽しんだ後、俺は駐車場で健気に俺を待つ愛車の元へ早歩きで向かう。12月の空は、19時でもすっかり暗闇だ。

ボーナス、か。車に乗り込みエンジンをかけ、一人ボソッと呟く。言われるまで、ボーナスのことなどすっかり忘れていた。貯金は人に言えるほど多くもないし、月の給料だって暇な大学生のアルバイト程度くらいしか貰っていない俺にとって、年に二度のボーナスは、貴重な貯蓄源である。貯蓄源という言葉が存在するからわからないが、生きているだけで何故か赤字の俺は、ボーナスでしか貯金が出来ない。それなのに、そんな大事なボーナスのことを忘れていたのは、きっと俺が、それほど金銭というものに執着を持っていないからなのだろう。

お金より大切な物がある。愛、友情、信頼、その他もろもろのありきたりな何か。金銭はあくまで単なる“手段”であり、それそのものにはメモ用紙程度の価値しかない。と、そんなことを思いながら、1日9時間、週5日、起きている時間の大半を、賃金のための労働に費やしている俺は、矛盾の存在といえるかもしれない。

月に一度の給料日や、年に二度のボーナスを楽しみに日々を頑張って働いている人は、少なくはないだろう。働いている人のほとんどは、きっと、お金のために働いているのだから、それは当然なのだろう。と、すると、俺は少し特殊なのかもしれない。

別に贅沢をしたいわけではない。ただ、生きるためにお金が必要なので働いてはいるが、そこまで生にも執着していないので、となると、そんなにお金が欲しいわけでもない。そんな風に、ふわふわと、緩い矛盾を抱えながら日々を生きているのだ。

だったらいっそ、ボーナスはお金以外のものの方がいい。お金で買えないもの、そう、例えば、妹なんてどうだろうか。年に二度、どこかに下宿している妹が家に帰って来るのだ。ああ、きっと最高だ。仕事を終え、疲れた体で家に帰ると、玄関に見慣れない懐かしい靴がある。俺は高揚する心を抑え、あくまで平静を装い、リビングへ向かう。

あ、おかえり。

おう、ただいま。それから、おかえり。

ふふっ、ただいま。

エプロン姿で台所に立つ妹は、髪が伸びたからだろうか、この半年でずいぶんと大人っぽくなったように見える。

お兄ちゃん、冷蔵庫の中なんにもなかったけど、ちゃんと食べてるの?

食べてるさ、ほら。

そう言って俺は、コンビニ弁当の入った袋を見せる。妹は呆れ顔で俺の手から袋を奪い取り、俺を無理やりリビングの椅子に座らせる。

今日は私が作るから、座って待ってて。

いや、いいよ、お前も疲れてるだろ。

いいから、待ってて。

妹は、鼻歌交じりに野菜を切ったり、ステップを踏みながら何かを煮込んだり、味見をして満足そうに笑ったり、そんな風に料理をする。俺はそんな彼女の姿を、飽きることなくずっと見ているのだ。

夕飯は、煮込みハンバーグと暖かいスープだった。久しぶりに食べたちゃんとした料理に、俺は思わず泣きそうになる。俺にとっては、ただ空腹を満たすだけの行為でしかなかった食事も、彼女と一緒なら幸せな時間となる。

それから俺たちは、くだらないバラエティ番組を見ながらお互いの近況を報告しあい、昔の思い出話なんかをしたりしながら、平日の夜の時間をゆっくりと過ごした。妹は笑ったり呆れたり、少し寂しそうな顔をしたり、何かを言いたそうに俺の顔をじっと見つめていたり、短い時間で本当に色々な表情を見せてくれた。俺もきっと、同じように色々な顔をしていただろう。社会に出て、感情の死んでしまった俺が、唯一人間らしい暖かい気持ちになれる時間だった。

しかし、残酷なことにも、楽しい時間というものは、あっという間に過ぎるというのが世の常である。俺が風呂から上がると、妹はテーブルに突っ伏すようにして眠っていた。風呂上がりで濡れた髪のまま、まったく、風邪を引いちまうぞ。俺は眠る妹の髪を乾かし、軽くとかし、そして彼女をベッドに運ぶ。我が家にはベッドは一つしかない。一緒に寝ても、彼女はきっと何も言わないだろう。しかし俺は、固いソファで眠る。それが、兄というものなのだ。

朝、目覚めると彼女の姿はなくなっていた。テーブルの上には朝食が用意されており、裏返しに置かれたカップで押さえられた置き手紙には、可愛らしい字で『お仕事頑張ってね。また半年後に帰ってきます。妹』と書かれていた。

また、いつもと変わらぬ孤独で退屈な日々が始まる。俺はため息をつき、カーテンを開く。眩しい朝日が寝起きの顔に容赦なく差し込み、俺は思わず目を覆った。

なんだ、いい天気じゃねえか。

 

人生においてのボーナスというものは、きっとお金などではないのだろう。それは例えば、息を飲むような壮大な自然の風景であったり、誰にも体験できないような何事にも変えがたい経験であったり、昔好きだったあの子からの数年ぶりの手紙であったり、久しぶりに会った妹と過ごす平日の夜の時間であったり。

そういった、特別な出来事や時間。これからも頑張って生きていこうと、そんな風に思えるかけがえのない何か。そういったものが、人生におけるボーナスなのだろう。と、俺は思う。

俺には妹はいない。しかし、一生懸命働いていれば、いつかきっと、家の玄関に見慣れない懐かしい靴がある日が来るかもしれない。そんな日を夢見ながら、俺は日々を生きるのだ。

少し大人っぽくなった君に、ただいまとおかえりを言える、そんな日を。

飯屋は風俗店に似ている

飯屋は風俗店に似ている。

祝日の午後20時。餃子の王将のカウンター席に一人座り、俺はふと、そんなことを思う。

今夜は、素敵な女性と食事をする予定だったのだが、訳あって俺は今、王将のカウンター席で左右をオッサンに囲まれながら、注文した料理が運ばれてくるのを待っている。

どういう訳があって、そんな天国と地獄のようなことになってしまったのか、語る術を俺は持たないが、人生というのはそういうものなのだ。たくさんの人間がそれぞれに“訳”を抱えてこの世界を生きている。たまたま、お互いの訳がすれ違ったりすることも、それは当然、ありうることなのだ。そして俺は、そういった人生が、やはり嫌いではなかった。

さて、飯屋は風俗店に似ている。

そんな風に思ったのは、たまたま俺が、今日という日に孤独を抱えていたからなのかもしれない。金を払って食欲か性欲を満たすかの違い、などと、そんな薄っぺらな理由ではない。俺が言いたいのは、心の問題なのだ。

恐らく高校生であろう、いたいけなバイト少女が、疲れた表情で俺の前に天津炒飯セットを置く。この瞬間だ。考えてみてほしい。日常的に、誰かの前に料理を置くことがあるか。日常的に、誰かが自分の前に料理を置いてくれることがあるか。ここでいう、日常的にというのは、業務的なものを抜きにしたものだ。

答えはイエスとノーに分かれるだろうが、イエスの人は更に考えてほしい。その相手は誰か。恋人か、親か、兄弟かもしれないが、その相手は日常的に食事を共にする家族だろう。つまり、料理を置く、もしくは料理を置いてもらう、ということは、一般的に、一つ屋根の下に住む家族にしかすることのない行為なのだ。

彼女が俺の前に天津炒飯セットを置いた瞬間。互いに思いは無くとも、その瞬間だけは、俺たちは恋人となり兄弟となり、家族となる。俺はその瞬間に、980円を支払っているのだ。空腹が満たされることなど、ことのついでに過ぎない。

その意味では、風俗店も同じようなものなのだと思う。その行為は、本来であれば恋人や夫婦といった深い関係でなければ行うことはない。彼らはきっと、心の寂しさを埋めるためにそこへ通うのだ。ただヤりたい、そんなくだらない理由ではない。そこには耐え難い孤独と、手に入らない愛を渇望する“想い”が確かに存在する。彼らには彼らの“訳”があるのだ。

と、こんな風に熱く語ってはいるが、俺は風俗店には行ったことはない。これから行くことも、恐らくないだろう。特にこれといった理由や拘りがあるわけではないが、それもまた、俺という人間の人生の“訳”なのだろう。

話は少し変わるが、そんな俺に、風俗をやたらと勧めてくる先輩がいる。彼曰く「行くと自信がつく」とのことだ。確かに彼は、いつも自信に満ち溢れている。37歳独身実家暮らしの恋人無し。体重130kgの巨漢であり、自分で散髪している坊主頭のてっぺんにはすでに毛がない。若手にはバカにされ、上司にも期待されず、それでも彼がいつも自信に満ち溢れている理由は、月に何度も風俗店に行っているからなのだろう。「オンナは押せば落とせる」と彼は自信満々に言う。それはきっと、お気に入りの嬢をネットで予約してから店に出向くからだろう。

彼にとって風俗は、人生における一つの、なんというのだろうか、“大切な何か”なのだろう。みんなの嫌われ者ではあるが、俺はそんな彼のことが嫌いになれない。例えば彼が風俗に通うことをやめ、真面目に清い生活を送ったとしよう。それだけで恋人ができて結婚できるほど、世界は甘くはない。それならば、いっそ割り切って風俗に通い、その場しのぎの愛で心を満たす方がよっぽど合理的ではないだろうか。辛い現実を見ることをやめ、割り切った生き方を選んだ彼は、誰がなんと言おうと、潔く清い。そして同時に、どうしようもなく、みじめで、情けない。それでいいのだ。みじめで、情けなくたって、それもまた一つの人生。誰に文句を言われる筋合いもない。

カウンター席での一人の食事というものは、ついつい余計なことまで考えてしまっていけない。20分ほど前から空いている俺の前の皿を下げたいのだろう、よく日に焼けたバイト少年がハゲワシの如くウロウロしながらこちらの様子を伺っている。安心しろ、もう出るさ。

伝票を手に、レジへ向かうと、そこには俺の前に料理を置いたあのバイト少女が立っていた。もうすぐ上がりの時間なのだろうか、彼女の表情は先ほどと比べて少し穏やかなものとなっている。料金を支払い、背を向けた俺に、ありがとうございました、と彼女が言う。俺は背を向けたまま片手を上げ、行ってきます、と返した。

彼女はきっと、怪訝な顔をしていただろう。ただ、それでも、たとえ一瞬でも、俺と彼女は家族だったのだ。あのカウンター席は、幸せな家庭のダイニングのテーブルで、彼女は仕事に疲れた俺に温かい料理を作って待っていてくれたのだ。そういうことにしておいてくれ。それだけで俺は、ほんの少しだけ、救われるのだから。

こんな風に俺は、その場しのぎの愛を空っぽの心に少しずつ給油しながら、この人生という長い道を進み続けている。見渡す限りの荒野には、モーテルもガソリンスタンドも見えない。

いつか俺も、ガス欠を気にすることなく自由にこの道を走ることが出来るのだろうか。その時、隣には誰が乗っているのだろうか。

そんなことを思いながら、俺は車に乗り込みエンジンをかける。見慣れない警告灯が光ったので確認すると、ガソリンメーターがEを少し過ぎた位置を指していた。

お前もか、そう言って俺は少し笑い、近くのガソリンスタンドへ向けて車を走らせる。

そうして今度は、こう思うのだ。

ガソリンスタンドは風俗店に似ている、と。

チャーシューを最初に食べる人

日曜日の昼12時

ラーメン二国の店内は、カウンター席までほぼ満員に埋まるほど賑わっていた。

iPadを見ながらラーメンをすする中年男性と、作業服姿の若者の間のカウンターが一席空いているのを見つけ、俺はまっすぐにその席へと向かう。

 醤油ラーメンもやし抜き半メンで、それからチャーシュー丼

慣れた口ぶりで馴染みのバイト君にいつものメニューを頼み、腕時計を外して息をつく。冬の一歩手前ではあるが、ラーメン屋の店内は異様な熱気で溢れていた。この油が蒸発したかのようなねっとりとした湿度と、濃い醤油の匂いが、俺はたまらなく好きだった。

チャーシューニンニク、お待ち

隣の席に、ニンニクが乗ったチャーシュー麺が運ばれてくる。一気に周囲にニンニクの匂いが広がるが、それを気にもせず、作業服姿の若者は嬉々として、迷わずチャーシューを2枚、口へ運んだ。

ああ、彼は性欲が強いんだな。思わず微笑み、俺はそんなことを思う。

ずっと昔の記憶。くだらない話だ。何かのテレビ番組で、心理テストが紹介されていた。内容はシンプルで、ラーメンを食べるときに最初に何を食べるかでその人がどういう人間かがわかる、といったものだった。

その心理テストの答えも、その番組がどんな番組で誰が出ていたのかも、全く思い出せないが、覚えていることが2つある。元グラビアアイドルでタレントのMEGUMIは、チャーシューを最初に食べるということ。そして、心理テストによると、チャーシューを最初に食べる人間は、性欲が強いということだ。くだらない子どもだましな心理テストだ。しかし、その頃の俺はラーメンは最初にまずチャーシューを食べるし、性欲もバリバリの男子中学生であったということもあり、すっかりその心理テストを信用してしまったのだ。

その頃からか、俺はMEGUMIを妙に意識してしまうようになった。同じタイミングで、性欲が強い者というレッテルを貼られてしまった者として、仲間意識というのだろうか。何より、MEGUMIのあの、甘美に濡れた焼けた肌、Hカップオーバーでありながらしっかりと造形を保った重艶な乳房。その見た目や性格から漂うエロスは間違いなく本物で、それは麻薬のように俺の意識を朦朧とさせた。

俺は未だに、MEGUMIという甘美で妖艶な霧の中から抜け出せずにいる。そして、ラーメン屋でチャーシューを最初に食べる人を見ると、この人は性欲が強いんだなと思う。人の記憶というものは、案外、いい加減なものなのかもしれない。本当に大切な人の顔や思い出は、気づくと思い出せなくなっているくせに、こういったくだらない記憶は何年も残り続けている。

さて、そうこうしているうちに、隣の若者はニンニクチャーシューラーメンを食べ終え、それと同時に俺の前にもやし抜きの醤油ラーメンが運ばれる。俺は待ってましたとばかりに割り箸を取り、手を合わせ小さくいただきますと言い、そうしてまずチャーシューをスープに絡めて口へ運ぶのだった。

外に出ると、冷たい冬の風が心地よく俺の体温を下げてくれる。ラーメン二国の濃い醤油スープは、寝起きの昼下がりには少し重過ぎた。

帰ったら、久しぶりにMEGUMIのグラビアを見て抜くか。

不愉快な満腹感を胸と胃袋に抱えながら、重い雲のかかった暗い空を見上げて俺は、そんなことを思う。

彼女もまだ、チャーシューを最初に食べているのだろうか。

終電

アカシックというバンドの終電という曲に惚れ、ミニアルバムを買った。

終電で帰る、嫌われる前に

その歌詞は、胸にグッとくる。vo理姫の歌い方や声が、より切なさを感じさせる。一生懸命に動きながら歌う女性は、本当に魅力的だ。

思えば、5年以上聴き続けているパスピエとの出会いも、最終電車という曲だった。

終電車に飛び乗る、君の背中が嫌いよ

乗り遅れちゃえばいいのに、一寸先は闇なんちゃって

高校時代、部活を引退し、就職も決まった俺は、ほぼ毎日、放課後はすぐ家に帰り、布団の中でラジオを聞いていた。その時、当時はまだ1枚目のミニアルバムを出したばかりで全く有名ではなかったパスピエの最終電車がリクエスト曲として流れたのだ。その歌詞と、vo大胡田N氏の歌声に惹かれ、初めてCDを買った。

未だにパスピエは好きだ。あれから彼女たちは瞬く間に有名になり、アルバムも増えた。それでも俺は、あの雨の木曜日の17時に、薄暗い部屋の布団の中で聞いた最終電車が、一番好きだ。

終電、というものは、色々な気持ちを乗せて走っている。そして、そこに乗らなかった気持ちもまた、存在する。送るものと送られるもの。そこには必ず、別れが伴う。

俺はあまり電車に乗らない。故に、終電とはほぼ無縁ではあるが、だからこそ、そこに憧れに近い感情があるのかもしれない。

今夜も、何処かで誰かの想いを乗せて終電は走る。悲しみや、後悔や、そういった感情を乗せて。あるいは、涙や嗚咽を乗せて。その届かなかった気持ちは、一体何処へ向かうのだろうか。

終電の去った後、誰もいない駅のホーム。静かな線路、踏切。そこに残った想いの欠片。人知れず、深夜の静けさの中を漂うそれは、静かな雪のように降り積もり、そして夜明けの始発電車が来る頃には消えて無くなってしまうだろう。

Happy birthday to いずれ死にゆく者

いつからだろうか。

自分の誕生日が、一年の中で一番の特別な日ではなく、他の日と変わらない、ただ経過するだけの日となってしまったのは。

日曜日の昼下がり、カーテンを閉めた薄暗い部屋に、電子的な銃撃戦の音が響く。俺の放ったミサイルは狙いを大きく外れて敵の機動兵器を通り越し、虚しく空の果てへと消える。同時に姿の見えない敵のスナイパーから放たれた銃弾が俺の頭をヘルメットごと貫き、俺の身体は力なく地面に崩れ落ちた。画面に、You Loseの文字が浮かび上がり、俺はベッドへコントローラーを投げる。

自分への誕生日プレゼントにと、少し奮発して人気のオンラインゲームを買ってみたが、ハズレだった。お陰で、財布の中身は数百円となり、昼飯を買う金さえなくなってしまった。ため息をつき、部屋の天井を見上げる。カーテンの隙間から入り込む午後2時の陽射しが、天井に三角の模様を描いている。

明日、11月7日が自分の誕生日だということを思い出したのは、昨夜のことだった。ここ最近、仕事が非常に忙しく、10月の仕事が片付かないまま11月に入ってしまった。それからすでに1週間が経とうとしているが、俺の頭はまだ10月のままだった。

誕生日、か。

ため息まじりに、天井に向かって呟き、俺は昔のことを思い出していた。

子どもの頃、自分の誕生日は何よりも特別な日だった。数週間前からそわそわとし始め、前日は眠れないほど楽しみにしていたものだ。その日だけは学校からまっすぐに家に帰り、綺麗に包装されたプレゼントを開けるのだ。プレゼントの中身はその年によって、欲しかったゲームやラジコンやお菓子だったりしたが、今となってはあまり思い出せない。俺の大好物を揃えた晩御飯と、アニメキャラクターを模したケーキ。家族みんなが笑顔で、ローソクを吹き消す俺を見つめていた。

その瞬間、その日だけは、俺は世界で一番特別な存在になったような気がしていたんだ。誰もが俺の誕生日を祝い、笑顔で、おめでとうと言った。まるで、夢のような時間。いや、今思うと、あの日々は本当に現実のものだったのだろうか。誕生日だけではない。何をしていても、あの頃の俺は、自分が特別な存在だと信じていた。少なくとも、こんな大人にはならないだろう、と。

 

11月の空気は、今でも好きだ。秋が終わり、冬が来る。この時期になると、気持ちがどこか落ち着かないのは、きっと昔の名残だろう。

Happy birthday to いずれ死にゆく者。

いつの間にか、ベッドに座っていた孤独が俺に向けて言う。

なんだ、また来たのか。

私が来たわけじゃないわ、あなたが呼んだのよ。

長い髪をしたスタイルの良い女の姿をしたこいつは、どうやら俺の孤独らしい。1年ほど前から、何をするわけでもなく、ただ時折、俺の前に現れてはしばらく話をして消える。

私はずっと、あなたのそばにいるわよ。ただ、あなたが認識していないだけ。

なんで俺の孤独なのに、そんな風に俺と全く似てない姿をしてるんだ。

それも違うわ、この姿は、あなたが私をそう認識しようとしているからそう見えているだけよ。

孤独は、手を広げて自分の体を眺め、そして、悪趣味ね、と言った。

まあ、お前が居てくれてよかったよ、お陰で俺は孤独を嫌いにならずにすむ。

それも違う。本当に何もわかっていない人ね。あなたの中の孤独が私なの。あなたが私を好きだと思うなら、あなたは孤独でいることが好きなの。

孤独は俺の隣に座り、でもね、と続ける。

ずっと孤独でいて平気な人間なんて、いないわ。あなたは私を求めてはいけない、そうでなければ、私はいつかあなたを殺すことになる。

俺は平気さ、孤独には慣れてる。

それは、強がりでもなんでもない。これまでだってずっと1人で生きてきた。これからだって。

嘘ばっかり。私にはわかるのよ、ずっとあなたのそばで見ていたもの。本当は一人が寂しくて仕方ないんでしょう。誰かに助けて欲しくて仕方がないんでしょう。自分自身にさえ嘘をついて、それでも心の奥では助けを求めて叫んでいる。

孤独は俺の胸を指で撫で、小さく笑って立ち上がる。

明日は特別な日、なのでしょう。あなたがまた私と出会わないことを、願っているわ。

ああ、そうだな、ケーキとプレゼントを用意して待っててくれ。

俺が言うと、孤独はまた小さく笑い、そして部屋のカーテンを開いた。それまで抑えられていた陽射しが一気に部屋に入り込み、その眩しさに俺は思わず目を閉じる。次に目を開いた時、俺の目の前に孤独の姿はなく、かわりに窓の向こう側に広がる日曜日の世界の姿があった。

俺はあいつが、孤独が嫌いではない。だが、あいつの言っていたことはきっと真実で、俺は心の奥で自分自身のことさえも騙し生きていこうとしているのだろう。しかし、そうでもしなければ、こんな世界で一人で生きていくことなんてできない。

人は、一人では生きていけない生き物なのかもしれない。誰かと繋がり、誰かに認められ、そうして初めて生を実感できるものなのだ。俺はいずれ、自分自身の孤独に殺されるだろう。

開かれたカーテンの向こう側に広がる、遠い世界を見つめながら、俺は孤独の言っていた言葉を思い出していた。

Happy birthday to いずれ死にゆく者。

明日はきっと、特別な日になるだろう。

のらねこソクラテス

あいつは、小学校低学年の頃に出会ってからずっと、俺のことを見ている。信号機の上や、テーブルの下や、時には電車の吊り革にぶら下がりながら。いつも戯けながら俺を見て笑い、知ったような口を聞くのだ。退屈な野郎だ、と。

今夜は、俺の人生を変えた本の話をしようと思う。

たまには、嘘ではなく、真実の、俺の話をしよう。そんな風に思ったのは、amazonで、とある絵本を見つけたからだ。

“野良猫ソクラテス”というシリーズの絵本。タイトル通り、ソクラテスという名の人間の言葉を話す野良猫が登場する話だ。ソクラテスは、主人公の少年や少年のクラスメイトたちを助け、時には困らせ、友情を育んでいくというもの、だったと思う。いかんせん、もう10年以上前に読んだ本なだけに、内容はうろ覚えだ。

幼少期の頃、俺は、学校の図書室にあったこの絵本が本当に好きだった。ソクラテスは猫であり、それ故に当然のことながら学校へは行かず、普段は何をしているかわからない。だが、時折、退屈しのぎに学校を訪れ、いつもケラケラと笑いながら、主人公たちにちょっかいを出すのだ。

当時、学校に通うことが嫌いだった俺にとって、ソクラテスは憧れの存在だった。アウトローでありながら、仕方がない奴と呆れられながら、それでも子どもたちからは愛され、信頼されていた。ソクラテス自身はいつだって戯けて笑い、知ったような口でいろいろなことを話し、そうして高い木の上から街を見下ろし大きな欠伸をする。ふざけた風に話すが、彼は本当に大切なことを知っていて、主人公たちに、俺に、そのことを教えてくれた。カッコいいと思った。俺も、こんな生き方をしたい、と。

週に一度、授業の中で読書の時間があり、周りのみんなが流行りの“デルトラクエスト”や“かいけつゾロリ”を取り合う中、俺はバラバラに並んだ棚の中からソクラテスシリーズを探し出し、時には同じ物語を何度も読み返した。そして、ソクラテスの真似をして、群れず、知ったような口ぶりで話をし、そしていつも戯けて笑うようになった。

今だってそうだ。俺はいつだって戯けて笑い、知ったような口ぶりで話す。それでも、俺は、ソクラテスにはなれなかった。

ソクラテスは、怒りや悲しみや、そういった負の感情を滅多に出さなかった。その代わりに、ずっとヘラヘラと笑っていたのだ。子どもの頃の俺は、ソクラテスには何の悩みもないのだと思っていた。気ままな野良猫だから、何も悩まず笑ってられるのだ、と。今になって考えると、彼にもきっと、悩みはあったのだと思う。

印象に残っている話がある。“ソクラテスほえる”、というタイトルだったと思うのだが。その話の中で、ソクラテスの親友の魔女が姿を消した時、これまで一切の感情を現さなかった彼が、悲しみにほえたのだ。結局、魔女は見つからず、ソクラテスは数日後にはケロッとして、いつもと同じように笑うようになっていた。子どもたちに心配をかけないように、カッコいい姿であるために、悲しみを笑いの裏に隠して。

以前も書いたことがあるが、俺は、いつからか、怒りや悲しみの感情を上手く感じることが出来なくなってしまっている。それはきっと、ソクラテスに憧れていたからではないかと、そんな風に思うことがある。いつだって、どんな時だって、笑っているような男でありたいと、今だってそう思っている。俺にそう思わせたのは、幼少期の頃に出会ったこの絵本であり、ソクラテスという野良猫である。

しかし、今の俺はどうだ。学校に通っていた頃と変わらず、毎日同じ時間に起き、同じ電車に乗り、会社へ向かい、周りの人間に気を使いながらやりたくもない仕事をし、仕事が終われば家に帰りコンビニ弁当を食べる。思わずため息が溢れ、そして癖のように、楽しくもないのに笑う。今の俺は、気ままな野良猫とは、正反対の人生を歩んでいた。ソクラテスに救いを求めるように、力なく、乾いた声で笑う。すると、彼の声が聞こえるような気がするのだ、退屈な野郎だ、と。

彼の姿を探して外へ出る。彼は二階の屋根の上に寝転がり、俺を見下し笑っていた。

ソクラテス、俺を助けてくれよ。

その退屈な日々は、お前の選んだ道だろう。お前の望んだ道だろう。

そんなこと、言われなくてもわかっている。でも、どうすればいいかわからないんだ。助けてくれよ、あの頃、そうしてくれたように。

ソクラテスは、俺の生き方を変えてくれた。辛い時こそ笑うように、彼のおかげで俺は、そんな生き方が出来るようになった。だけど、今の俺はもう、上手く笑うことさえ出来なくなっていた。感情を上手く感じることも出来ず、それを隠すために笑うことさえ出来なくなった時、俺はどうなってしまうのだろうか。

あの本をもう一度読むことが出来れば、あの頃と同じように、ソクラテスは俺を導いてくれるだろうか。

あの頃と何も変わっちゃいねぇさ、俺も、お前も。だがな、世界やお前を取り巻く環境は変わってる。だから、お前は変わらなきゃならねぇんだ。

変わるために何をどうすればいいのか、それがわからないんだ。お願いだ、俺を見捨てないでくれ。

俺は、救いを求めるように、amazonで見つけたソクラテスシリーズの全巻を注文する。

数日後には、俺の手元にあの頃読んでいた絵本たちが届くだろう。その時、彼はもう一度、俺に道を示してくれるだろうか。

祈るような思いで、俺は彼との再会を待つ。楽しみよりも、不安の方が大きい。もし、10年ぶりに出会ったソクラテスが、俺に何も示してくれなかったなら。その時、俺は人生の指針を一つ失うことになるだろう。

なあ、ソクラテス、もう一度俺のことを助けてくれよ。

ソクラテスはゆっくり立ち上がり軽く体を伸ばすと、何も言わず、いつものように笑うこともせず、夜の闇へと走り去って消えた。