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かきかたの本

書き方の練習

さいたまのスポボブ

昔の女の話をしよう。

薄暗いバーのカウンターの隅で、ウィスキーを飲みながら。ジャズをBGMに、どこか遠くを見つめたりなんてしながら、さ。

俺はそういうことが“かっこよさ”だと思っている。思っているが、生憎、俺は酒が飲めないし、ジャズなんて聞く柄でもない。それに、まだ22の若造であり、かつ、学生時代に暗い青春を過ごしていた俺に、そんなニヒルに構えて話せるような女性との思い出話なんてものはない。

ただ、一人。

忘れられない女がいる。

なに、ただの昔の思い出話さ。かっこよさとはかけ離れた、暗い青春時代の俺の、一夜限りの恋。雨の夜に似合いの、退屈でくだらない男の昔語り。今夜はそんな、彼女の話をしよう。

 

7年ほど前の話になる。その頃、俺はとあるチャットサイトに入り浸っていた。AAチャットという、自分の好きなAAをアバターとして使い、吹き出しで会話するタイプのチャットサイトだ。そのサイトには定員10名の部屋が数十あり、俺はその中の“さいたま”という部屋にほぼ毎日のように顔を出していた。常連や古参と呼ばれる、昔からいるらしい人々とは一切関わらず、日々入れ替わり立ち替わり来る新たな顔ぶれとの会話を楽しんだ。

前述の通り、暗い青春時代を過ごしていた俺は、そのネットの中での人々との会話だけが唯一の楽しみであり、人生であったように思う。といっても、別にイジメられていたわけでも友達がいなかったわけでもない。ただ、退屈だったのだ。同じ顔ぶれの仲間と毎日同じ会話をし、恐らくその先の人生で使うことは無いであろう方程式や英語の構文をノートに書き写すだけの日々。好きな女子には、みんな彼氏がいた。

そんな退屈な日々の中で、そのチャットサイトで過ごす時間だけが俺にとっては唯一の刺激的な時間だった。“さいたま”にはいつも、年齢も性別も住んでいる場所も違う、様々な人々がいた。その中で俺は、小学生から40過ぎのオッサンまで、色々な人との会話を楽しんだ。時には、誰にも相手にされない日もあったし、荒らしや喧嘩師と呼ばれる連中に会話を邪魔されたこともあった。しかし、それを含めても、“さいたま”での日々は本当に面白かった。

ある夜、俺は、いつものようにさいたまを訪れた。部屋には二人の先客がおり、俺は会話を邪魔しないように部屋の隅の定位置に場所を取る。様子見の数名が入室と退室を繰り返したのち、彼女はやってきた。水色の猫のAAで、“スポボブ”という名前だった。彼女は、部屋の真ん中で話す二人の会話をしばらく聞いていたかと思うと、俺の隣にやってきて、そして「こんばんは!」と言ったのだった。

「こんばんはww」

「何歳ですか?」

「14です」

「年下だ!」

「え、何歳ですか」

「2個上だよ!」

「高校生ですか」

「そう!敬語やめて!」

たぶん、そんな会話から始まったのだと思う。ほぼ全ての言葉の後ろに“!”をつけるところが、かわいいなと思った。彼女との会話は、楽しい時間だった。部活や文化祭の話、高校受験の話、兄弟や家族の話、恋愛の話。学校ではしたことがなかった、そんな学生らしい話をたくさんした。顔も見えないし声も聞こえないが、それでも俺は彼女が、きっと素敵な人なのだろうなと、そんな風に思っていた。

「あ、お風呂行かなきゃ!」

23時を少し過ぎた頃、彼女がそんなことを言った。チャットサイトでの会話の終了の合図は、大体がそうだ。風呂に入る、か、寝る、か。頃合いになると、どちらかがそう言って、お開きになる。ああ、楽しい時間も終わりか。話していた時間は2時間ほどだったが、俺にとっては本当にあっという間だった。

「じゃあね!楽しかった!」

「こちらこそ!おやすみ!ノシ」

「おやすみ!」

そう言って、水色の猫のAAは煙となって消える。俺はため息を一つ、ログアウトボタンを押し、PCの電源を切る。風呂に入り、顔も名前も知らないスポボブに、想いを馳せる。また、話したいな。そんなことを思う。楽しい会話をしたのは、彼女が初めてではない。別れを惜しむ日もあった。しかし、こんな風に思うのは、彼女が初めてだった。AAチャットでの出会いというのは、一期一会だ。常連となれば話は別だが、この場所を訪れる人々の多くは暇つぶしか初見かのどちらかだ。一度話した相手と再び出会う可能性は、低い。

しかし、彼女はまだ眠るとは言っていなかった。そう、風呂に入ると言ったのだ。もしかしたら、もしかしたら、風呂から上がって寝るまでの間に、さいたまにまた来るかもしれない。なんて、そんな都合のいいことが起こるはずはない。と、思いつつも、風呂上がり、シャツを着るよりも先に俺はPCの電源を入れる。時刻は12時前。いつもなら、寝る支度をする時間だ。

さいたまを覗いてみて、少し待って、それでも彼女が来なかったら。その時は、大人しく眠ろう。もし、彼女が来たら。その時は、また会う約束をしよう。日にちと時間を決めて、このさいたまで。

 さいたまに入ると、そこに彼女の姿はなく、先ほどの2人がまだ会話を続けていた。そんなに上手くいくはずもないか。バスタオルで髪を拭きながら、2人の会話を眺めていると、見覚えのある水色の猫のAAが姿を現した。名前は、スポボブ。俺は彼女を知っている。

「あっ!」

俺を見つけ、彼女は言う。

「まだいたんだ!」

俺は胸のドキドキを抑え、震える手でキーを叩く。

「おかえりwww」

「ただいま!」

「俺もお風呂入ってた」

「そうなんだ!一緒だね!」

一緒だね。その言葉が、嬉しかった。彼女と同じ時を過ごし、同じことをし、そして今、こうしてまた話している。ただ、チャットサイトで話しているだけ。たまたま同じタイミングでログインしただけ。それだけのことなのに、当時の俺はそれを、まるで運命のようなものと思っていた。まるで彼女と、特別な関係になったような、そんな馬鹿な勘違いをしていた。

それからしばらく話し、彼女はそろそろ眠ると言った。別れを惜しむことはなかった。きっとまた会える。そう思っていた。

また話そうね!

去り際に、彼女はそう言った。今になって思うと、それは単なる社交辞令以外の何でもなく、この数時間も彼女にとっては単なる暇つぶしに過ぎなかったのだと思う。それでも俺は、浮かれていた。また話そうね。そんなことを言われたことは、なかった。

その日、俺はウキウキした気持ちで眠り、そして翌日、部活を終え、駆け足で家に帰り、すぐにチャットサイトへログインする。しかしその日、彼女は来なかった。きっと忙しいのだと、そう思った。そして、次に会う日を決めていなかったことを、少し後悔した。

それから数日、数週間と、俺はほぼ毎日、さいたまで彼女を待った。他の誰かと話すこともあったが、しかし、彼女以外との会話をこれまでのように楽しむことができない。数ヶ月が経ち、俺はそのチャットサイトを訪れることをやめた。

 きっと、もしかしたら、そんなはずは。誰もいない“さいたま”で彼女を待っている間、ずっと、そんなことを考えていた。繰り返し、何度も。そしてようやく気づいたのだ。彼女は、きっと来ないだろう、と。

男子中学生なんてものは、そういうものだ。一人で勝手に想像を膨らませ、浮かれてしまう。そしてある時、現実を知り、打ちひしがれるのだ。悲しいかな、俺も例に漏れず、そんな馬鹿な男子中学生の内の一人だった。

思えば、あれが俺の初恋だったのかもしれない。女子と会話をしたこともない、暗い男だった俺が、初めて楽しく会話をした相手。それがたとえ、チャットサイトの見知らぬ女だったとしても、俺にはそんなことは関係なかった。

きっと、この世界のどこかで生きているであろう今の彼女は、俺のことなど覚えてはいないだろう。もしかしたら、あのチャットサイトの存在さえも忘れてしまっているかもしれない。

それでも俺は、構わない。

俺は彼女の顔も、本当の名前も、住んでいる場所も、何も知らない。しかし、彼女は確かに存在した。7年前のあの日、さいたまに。

今でも俺は、時折、彼女のことを思い出す。夜空を眺めながら、この世界のどこかで生きている24歳の彼女へ想いを馳せるのだ。彼女も同じようにこの夜空を見上げているかもしれない、なんて、そんなことを思いながら。

あの明るい性格なら、きっと恋人はいるだろう。もしかしたら、もう結婚しているかもしれない。子どもがいるかもしれない。なんだっていい。彼女が生きて、幸せになっていてくれれば、俺はそれでいい。

さいたまのスポボブ。

俺には、この世界のどこかに、顔も名前も知らない、昔愛した女がいる。