かきかたの本

書き方の練習

君の名は

今、とても人気のあるらしい映画『君の名は』

俺も見てみたいのだけれども、みんな見てしまっているので、一緒に見にいく人がいない。一人で行けよと思われるかもしれないが、他の映画はともかくとして『君の名は』を一人で見にいくのは、どうだろう。一人でファミレスの8人席に案内され、西洋の王族のように広いテーブルの端でハンバーグを食べたことのある俺であっても、さすがに一人で『君の名は』は耐えられない。一人で『君の名は』を見に行って、いったい何と入れ替われと言うのだ。ジーパンか?ジーパンと入れ代わればいいのか?俺のはいているジーパンと俺自身が入れ替わったところで、いったいなんだと言うのだ。

さて、そんな『君の名は』のことが気になって仕方のない俺ではあるが、おそらく見ることはないので、自分なりに考えてみることにした。『君の名は』は、男女が入れ替わるお話だろう。だったら俺は、何と入れ替わることが出来たら嬉しいだろうか。

やはり、一番入れ替わりたいのは、女子高生、だ。女子高生になれば、警戒されずに女子高生と触れ合える。これが一番だろう。二番目に入れ替わりたいシマウマも、同じ理由だ。郷に入っては郷に従え、女子高生と仲良くしたければ女子高生に、シマウマと仲良くしたければシマウマになることが一番だ。一緒に写メを撮ったり、部活をしたり、じゃれあったり、ライオンから逃げたりなどしたりできる。

女子高生と入れ替われば、更衣室やお風呂なども、見放題だ。女子高生なので、見放題でもなんの違和感もない。それは、男の永遠のロマンなのだ。『君の名は』本編でも、絶対にそういった描写はあるはず。主人公の彼(彼女)は、入れ替わった時にとりあえず、あかねの湯に行ってるはずだ。そして岩盤浴とか、してるに違いない。

さて、その場合、俺と入れ替わった側の女子高生はといえばだが、もちろん俺と入れ替わることで得もある。PS4とか持ってるので、それをすることなどができる。

さあ、次は、一番入れ替わりたくないもの、だ。それはやっぱり、うんこ、だろう。うんこと入れ替わってしまえば、もう最悪だ。理由は、説明する必要もないだろう。うんこになることも最悪だが、同時に、うんこと入れ替わった自分も生まれることになる。見た目が俺で、中身がうんこ。いや、それは普段とあまり変わりはないか。

うーん、『君の名は』ますます気になってきてしまう。どんなお話なのだろうか。

最後に、一番入れ替わりたいものと、一番入れ替わりたくないものを合わせるとどうなるのか、見てみよう。

女子高生のうんこ。

それはそれで、悪くないように思える辺り、やはり女子高生はすごい。

台風18号の日

昔から台風は好きなんですよ、ワクワクするじゃないですか。

仕事中、隣のデスクに向かって言うと、課長は退屈そうにPCの画面を見つめたまま短く一言、ガキじゃねえんだから、と言った。確かに、全国の配送に関わる我が部署では、交通障害を撒き散らしながら、文字通り威風堂々と日本を通り抜ける台風は迷惑な存在でしかない。しかし、そんな風に実害を被りながらも、俺はやはり台風が嫌いになれないのだ。窮屈な事務所のデスクから、窓の外の黒い雲を見上げ、俺は心のざわめきを感じていた。

いつから好きだったのかは思い出せないが、物心ついた頃から俺は、台風のことが好きだった。学校が休みになるだとか、そんなくだらない理由ではない。なんというか、雲のうねる黒い空や、叫び声のような風の音、その非現実な状況が、俺の胸を騒がせるのだ。台風の日には敢えて外に出て、雨と風を全身で感じる。その時、俺は世界と一体化したような、そんな気分になるのだ。

そしてそれと同時に、ずっと昔の、ある台風の日のことを思い出す。あれは、俺が小学校に上がった年、今日と同じ、台風18号が接近していた日のことだ。

その日は朝から、不気味なほどに暗い日だった。空には黒い雲がうねるように流れ、空気は冷たく、轟々とした風が窓を揺らす。そんな中、授業を終え、さあ帰ろうという時に、これまでなんとか耐え続けていた黒い空のダムが決壊した。突然、世界の終わりのような土砂降りの雨が降り出し、追い打ちをかけるように雷が鳴り響く。教師たちが慌ただしく靴箱に走り、帰ろうとする生徒たちを校舎へ押し込めた。

午後4時とは思えない薄暗い校舎内に押し込められた子どもたちは、それぞれ階段に座り、窓から見える世界の終わりを眺めていた。そして当時の俺も、その中の一人だった。

最初はワクワクしていた俺だったが、時間が経つにつれ強くなる雨と暗くなる空、泣き出す子までいる状況を見て、さすがに不安になり始める。このまま帰れないんじゃないか、誰かが言った。雨の音が嫌に大きく聞こえる。一際大きな雷が鳴り響き、空がさらに暗くなる。

俺は、泣いていた。周りにいた子どもたちの半分以上が、同じように泣いていた。その時のことを、今でも覚えている。俺にハンカチを差し出してくれた女の子が、いた。その子は顔も見たことのない子で、当然話したこともなく、なぜみんな泣いている中で、俺にだけハンカチを差し出してくれたのか、わからなかった。自分も今にも泣きそうな顔をしながら、泣いたらダメ、と、そう言って俺にハンカチを差し出してくれたのだ。

今考えても、あの頃の俺はどうしようもなくかっこ悪かったと思う。その時、俺は、ハンカチを差し出してくれた彼女の手を払ったのだ。俺は、かっこ悪いと思われたくなかったのだ。泣いているくせに、女の子にハンカチを借りるなんてかっこ悪いことをしたくなかったのだ。それから、ずっと下を向いてうずくまっていたので、彼女がどうなったのかはわからない。雨が収まり、教師の声で顔を上げた時、彼女の姿はなく、小さなハンカチだけがその場に落ちていた。

今でも、その日のことを思い出す。今にも泣き出しそうな彼女の顔。泣いたらダメと言った震える声。俺が払った、小さな手。

 

台風18号は、依然として勢力を保ったまま日本海上を北上中。今夜から明日未明にかけて関東地方へ上陸……雨と風の音に紛れ、カーラジオの声が途切れ途切れ聞こえる。この台風の夜の中、海沿いの道を走る車は一台だけだ。ワイパーを全開にしても前はほとんど見えない。猛烈な雨とうねる黒雲が、ヘッドライトに照らし出されては消える。

大荒れの海を眺めることのできる、小高い丘の展望台。その駐車場に車を停め、俺はその時を待つ。あの頃と同じように、窓の外に映る世界の終わりを見つめながら。すぐ近くで空が光り、轟音が響き渡る。カーラジオから流れる音が雑音に変わり、展望台の街灯が消えた。瞬間、あれだけ荒れ狂っていた雨と風が止まる。

まるで、その場だけ、すべての時が止まったような、そんな奇妙な感覚。俺は車のドアを開け、外へ出た。冷たく湿った空気が俺の全身を包む。遠く海の先には嵐が見えるが、この展望台の周辺だけは穏やかな時間が流れていた。消えていた展望台の街灯が数回点滅した後、ぼんやりと明かりを灯す。その下に、あの頃の彼女がいた。あの頃と同じように、今にも泣き出しそうな顔をして、遠くの嵐を見つめていた。俺は彼女に歩み寄り、そして、あの日からずっと大切に持ち続けていたハンカチを差し出す。

泣いたらダメだよ。俺が言うと、彼女は驚いたように顔を上げ、そして涙を流して小さく笑う。俺は、台風の目から溢れた涙を拭き取り、彼女の小さな手にハンカチを返した。彼女はそのハンカチを受け取り、小さく首を横に振ると、ハンカチを俺の瞳に当てた。また、泣いちまってたのか、俺は。まったく、いつになってもかっこ悪いな。照れ隠しに笑う俺を、彼女は小さな身体で抱き寄せ、そして言うのだった。もう大丈夫、と。

激しい雨と風が俺の身体に降りかかる。俺は海に向かって腕を広げ、叫び声を上げる。その叫びはすぐに、猛烈な風に掻き消される。何度掻き消されても、俺は叫び続けた。この台風の夜に、世界と一体化したような、そんな気分で。

 俺にはもう、帰る場所もなく、涙を拭ってくれる人もいない。だけど俺は、必死に涙を堪え、先の見えない嵐の中を進み続けるのだ。いつか、あの頃と同じように、ハンカチを差し出してくれる人が現れることを信じて。

その時、俺は今度こそ、その小さな手を握り返すことが出来るだろうか。

もう大丈夫。

彼女の小さな声は、吹き荒れる風雨に巻き込まれ、消えていった。

UFOを見た

UFOを見た、と思ったが、どうやらあれは飛行機だったらしい。

「こんな時代に、空を飛べる飛行機だなんて、馬鹿げてる。UFOの方がよっぽど現実的だぜ」

見知らぬ誰かの古いアルバムを炎に焚べながら、D.Dが言う。紙はよく燃える。分厚い束なら、より長く。今の俺たちにとっては、他人の思い出よりも暖をとる方が重要だ。

「いや、でもあれは確かに飛行機だったよ。翼があって、たぶんエンジンもついてた」

「だったらそいつは、翼とエンジンのついたUFOだろうよ」

屋根のない民家の瓦礫の中、かつて茶の間であったろう場所で焚き火を囲んでの団欒だ。D.Dの話では、世界は随分と昔に終わったらしい。俺が眠っている間、その崩壊を目の前で見てきた男だ。

「で、ケビン、そのUFOはどっちに向かって飛んでた?」

「ええと、電波塔の方に向かって飛んでったから、ここから見ると…東だ!」

東、か。古い地図を広げる。ここから東、60kmほど先に、軍の基地施設の跡地がある。中規模基地で、そこなら滑走路もあるはずだ。

「どうする」

「60kmか、道が無事なら歩きで3日ってところだな」

D.Dはそこまで言って、火から串焼きを取りそれを口に運ぶ。彼が捕まえてきたよくわからない生物を、生きたままテント用のペグに突き刺した物だ。丸焦げになりながらも手足をバタつかせるその生物を、D.Dは気にせず頭から食らう。

「あー、よく食えるね、そんな、なんというか、グロテスクなもの」

「お前の大好きな腐ったレーションよりましだ」

2人の会話を聞きながら、俺は仰向けに寝転がり、夜空の星を見上げる。屋根のない場所で眠るのは、随分と久しぶりな気がする。

「今夜は、星がよく見えるな」

俺が言うと、2人は会話を止め、同じように空を見上げる。

「ずっと昔、まだこの星に人間が生きていた頃、夜空に星はなかった」

「どういうこと?」

「地上が明るすぎたんだよ。人間は、闇を恐れていたからな」

D.Dがアルバムの束を火に投げ入れる。その拍子に、束から抜けた一枚の写真が俺の胸の上に落ちる。それは、かつてこの家に住んでいたであろう家族の集合写真だった。

「なあ、どうして世界は終わっちまったんだ」

「さあな、人間がそう望んだんだろうよ」

「彼らの言葉で言うなら“神の裁き”ってやつかな」

 「どっちだって変わらねえよ。都合の悪いことは全部神のせいにしちまう連中だ」

「神の裁き、か」

俺は、家族写真を焚き火に投げる。写真は、火の中で一瞬だけ明るく燃え、そして黒く消えていった。

「さあ、明日は朝から歩きだ。進路は東、宇宙人に会いに行くんだ、失礼の無いよう銃の準備はしておけよ」

「なあ、D.D、もし、あの飛行機に乗ってたのが僕ら以外の人間だったら、どうする?」

「……」

「ケビン、お前ももう寝ろ。今夜は俺が見張る」

「あ、ああ、わかったよ」

スコープ付きのボルトアクションライフル(D.D曰くまともに弾が飛ぶのが奇跡の骨董品らしい)を持ち、瓦礫の山を登る。

ずっと遠く、ドーム状の星空がどこまでも続いている。かつて人類が生きていた頃、夜は光に溢れていたらしい。だが、今が暗いわけじゃ無い。月と星の光で、遥か彼方の地平線の先まで見渡せる。

世界は、ずっと昔に終わったらしい。ある時、何かが起き、世界は瓦礫の山と化した。それまで、私欲にまみれた穢れた繁栄を謳歌していた人類は姿を消し、世界には俺たちしかいない。はずだった。

星空の下を、東へ向かう光が見える。一瞬、流星か火球かと思ったが、違う。もっと、意思を持った能動的な動きだ。スコープ越しに見ると、それは翼とエンジンを持った空を飛ぶ何か。その機械を飛ばすことが出来るのは、俺の知る限り人間だけだ。

「おい、ありゃあ……」

「ね、ほら、飛行機だよ飛行機!」

その夜、俺は2度目のUFOを見た。と、思ったが、どうやらあれは飛行機らしい。

「なあD.D、確かに世界は終わっちまったかもしれねぇが」

銃のスコープを下ろし、遠く東の果てへ目を向ける。

「人間は、きっとまだいる。この終わっちまった世界の中で、まだ生きている」

異世界の話の序章

あの日は、本当に暑かった。と言っても、夏しかないようなこの国では、この気温はごく日常的なもので、街を歩く人々は皆、暑さに顔をしかめることさえせず、ただそれぞれの目的のために歩いていた。タオルを持っている人間は俺だけで、そのことが余計に俺に、自分が異国にいるということを実感させる。

多額の金を支払い、調査船に同乗し北極の“世界の穴”を通り、海が上にも下にも見える不思議な渦の中を2週間進んだ。途中、迷い込んだのか、それともそこが住み家なのかはわからないが、巨大なイッカクの群れが“天井の海”を泳ぐ姿を見た。夢や異世界のような光景の中、俺は叔父が昔よく話してくれた、空を泳ぐクジラの話を思い出していた。

この、地底都市アガルタが発見されてから15年。伝承の中にしか存在しなかった幻の都市も、今となっては、まともな往復方法が確立され、その存在は世界に知れ渡っている。と、同時に、その途方もなく遠く、そして退屈で、訪れる価値もほとんどない都市は、謎に包まれていた頃とは打って変わり、人々の興味を失わせていた。

帰りはどうするんだ。調査船の船長が俺に聞く。高い往路だ、帰りの運賃はない。なんとかするさ、と答え、俺はリュック一つでアガルタの地に降り立ったのだった。

アガルタ人の文化は、学者たちの興味を引くものではないらしく、15年前に発見されたということを差し引いても、アガルタの文化や言葉を記した文献は、非常に少ない。その少ない文献の中から、なんとか現地の言葉を学んだつもりでいたが、細かな意味や発音の違いがあるらしく、これがどうして厄介なもので、思うように事が進まない。ようやく港から次の街に到着した頃には、すでにアガルタに到着してから24時間が経とうとしていた。

アガルタには、夜がない。それに、時計もその代わりとなる時間を示すものもない。ここの人々が何を基準に生きているのか、わからない。

地球の内側に存在する慣れない異国、暑さと寝不足で、頭がどうにかなりそうだ。とにかくどこかで、一息つきたい。街をふらふらと放浪し、ようやく宿屋らしき店を見つけ、そこに入る。受付の、真っ黒に日焼けした男がちらりとこちらを見る。俺はメモに書いてきた言葉を読み、自分が表皮世界から来たことと、部屋を借りたい旨を説明する。受付の男は顔をしかめるが、話の内容は理解したようで、俺に向かって何かを言った。その言葉の意味が、わからない。まいった。何かヒントが欲しいが、受付の男は身振りをするわけでもなく、ただじっと、俺を見つめるのだ。

俺はメモ帳をめくり、それらしき言葉を探すが、まったくわからない。情けない話だ。言葉が通じなくても、同じ人間なのだから、身振り手振りでなんとかなると、そう思っていた。受付の男がイライラしている様子がわかる。俺は諦め、ため息をひとつ、メモ帳を閉じた。

その時、部屋を借りたいの、と聞き慣れた言葉が飛んできた。それは、アガルタ語でも英語でもなく、故郷の日本の言葉だった。一瞬、幻聴かと思ったが、振り返るとそこには確かに、日本人の、俺より少し若い女性が立っていた。

彼女は愛想よく笑いながら流暢なアガルタ語で受付の男と話し、そして俺を指差し、また何かを言う。先ほどまでイラついていた男の顔に、笑みが浮かぶ。その様子をボーッと見ていると、女性が俺の方を向き、一泊なら石四つで、それ以上なら一日ごとにプラス二つずつでいいって、と言った。俺は慌てて、とりあえず一泊で、と答え、リュックを開く。

アガルタの通貨は、石だ。普通の石ではなく、アガルタストーンと呼ばれる特別な紋様の書かれた石で、アガルタの人々はこの石をただの通貨としてではなく、神のように信仰し大切にしている。一応、正規ではないが表皮世界で換金もでき、その価値は石一つで約100ドル。俺はこの15年の貯金全額の中から、往路の船賃を差し引き、余った分を全てこの石に替えた。それでも、手元には106個しかない。あまり、長居は出来そうにない。

俺はリュックから、3センチ四方の歪な形の石を四つ取り出し、それを受付の男に差し出そうとする。待って、女性が言い、俺の手を止める。女性は俺の手から石を取ると、それを額に当てて目を閉じ、祈るように何かを言ってから、男へ差し出した。男は受け取った石を確認し、小さく頷き、そして部屋の鍵を女性に渡した。女性は俺を見てふふっと笑い、2階の部屋ですって、行きましょ。と、言ったのだった。

さっきのは何だ、祈りなのか。ギシギシと音を立てる階段を登りながら、俺は女性に問いかける。わからないけど、現地の人間はみんなあんな風に祈りを捧げるの。彼らにとって、石は神みたいなものだから。と、彼女は言う。その言い振りから、彼女が俺のような旅行者ではなく、長い間このアガルタで生活しているのだということがわかる。

案内されたのは畳10畳ほどで、ベッドも椅子もテーブルもない、だだっ広いだけの部屋だった。まあいい、屋根と壁さえあれば十分だ。俺はリュックを下ろし、部屋の真ん中に寝転がる。アガルタに到着して以来、いや、日本を発って以来、初めて落ち着くことができたような気がする。たまった全身の疲れが、冷たく埃っぽい木張りの床へ、吸い込まれるように流れていく。さっきはありがとう、本当に助かった。俺が言うと、女性は部屋の窓を開けながら、いえいえ、こちらこそ、と返す。

起き上がり見ると、彼女も部屋の隅に自分の荷物を置き、座ろうとしている。今日はタダで泊まれる場所が見つからなくて困ってたの。笑いながら言い、彼女は俺にウインクをしたのだった。

 

さあ、今日の話はここまでだ。

時計の針はもうすぐ23時を指そうとしている。この物語のたった1人の小さな観客は、俺の腕の中で目をこすりながら、えー、と小さく言った。もっと聞かせてよ、パパとママのお話。俺は彼の肩まで布団を掛け直し、その小さな体を抱き寄せる。

続きはまた明日、だ。明日は、そうだな、特別に、パパとママが伝説を追ってシャンバラの山へ向かった所まで聞かせてあげよう。

ほんとうに?

ああ、お前が話の途中で眠くならなければ、な。

長く、退屈な昔の話さ。誰に言うわけでもなく呟き、俺は天井を見上げ、遠い世界の果てでの出来事に想いを馳せる。窓の外では、秋の虫が鳴いている。こちらの世界には、四季があり、夜がある。

そうして俺は思うのだ。今は無き、地底都市アガルタ。伝説のシャンバラの黄金の山々。世界の果てで彼女と過ごした、あの幻のような時間。あれは本当に、現実のものだったのだろうか、と。

信号機と夜

一体、どんな権利があってお前は、俺の歩みを妨げることが出来るんだ。

赤く光る歩行者信号に向けて、俺は言う。

何の権利もないさ、俺にはな。あんたが勝手に立ち止まっているだけだろう。

深夜2時の交差点。車の通りは全くない。

顔も知らねえようなどこかの誰かが、そう決めたんだろう?赤信号は止まれ、と。

信号機は、淡々と言う。

そうしてあんたは、大昔にママに言われたその、どこかの誰かが決めた言いつけを忠実に守り、何の意味もなく立ち止まっている。滑稽だよ、今のあんたの姿は。周りを見てみろよ、一体、何の危険がある?この世界には、あんたしかいねえじゃねえか。

信号機は、未だに闇の中で、静かに赤い光を放っている。俺は子犬のように立ち止まり、そして信号機を見上げている。

あんたたちは、考えることを俺に任せたせいで、自分自身で安全か危険かの判断すら出来なくなっちまったみたいだな。まったく愚かで、哀れな生き物だ。それで本当に生きているつもりか?自分で何も判断せず、どこかの誰かが作ったルールの上で、マニュアル通りに、ただ時間を消費するだけの行為を、生きていると言えるのか?

信号機が青に変わる。俺は横断歩道を歩き出す。

なあ、あんたは誰だ?一体、何のために生きている?それさえも、わからなくなっちまったんじゃねえか?いっそ、死んじまえよ。どうせ生きてる価値なんてねえんだ、家畜と同じだ。

うるせえ。短く返し、歩き続ける。

あんたの人生を窮屈にしているのは、どこかの誰かが作ったルールじゃねえ。そんな、守る必要も価値もないクソと同じものを、何の疑いも持たずに忠実に守り続けている、あんた自身だ。

横断歩道を渡りきった俺の背中に、信号機は、言葉を投げ続ける。

周りを見てみろよ、みんな忠実にどっかの誰かがひり出したクソを守ってやがる。それで生きているつもりでいるんだ。生かされているだけだってことに気づかずに、な。あんたはそれでいいのか?そんな、イかれた奴らに合わせて生きていていいのか?自分で決めろ、自分で生きろ。あんたの人生の進む道を決めるのは、あんた自身だ。ママの言いつけや、夜中に光る信号機じゃなく、あんた自身の心だ。

俺は立ち止まり、道沿いの花壇からレンガを拝借し、信号機へ投げつけた。レンガは歩行者信号の下段、止まれを意味する赤い部分に命中し、俺の足を止めさせていた赤い人間は、火花を上げてバラバラに飛び散った。

信号機は、もう何も言わない。

俺は、夜道を進む。道標は、もうない。俺の行く道を遮るものも、だ。

8月31日

夏の終わり。涼しく心地いい風と、静かなひぐらしの声に乗せて、どこからか、秋の匂いがする。俺はこの、夏と秋の間の、ほんの一瞬の季節が好きだ。

山中にある静かな墓園。数年前に開かれたそこには、すでに多くの人間が眠っている。先祖を大切にするような、立派な信仰心は持ち合わせていないが(と言っても、その墓には一人しか入っていないが)墓地特有のあの厳かな空気感が好きで、俺はよくその場所を訪れる。訪れる人々は皆、眠っている人間を起こさないように、静かな声で話し、そして昔を思い出すように手を合わせ、目を閉じる。蝉や鳥さえも、どこか控え目に鳴いているように思える不思議な空気感は、俺の心を落ち着かせた。

そんな、この世とあの世の境目のような、現実世界の喧騒から少し離れた場所で、山々を眺めながら澄んだ空気を胸いっぱいに吸い込む。そうすることで、誰にも何にも邪魔されず、自分を、少し離れた場所から見直すことが出来る。自分が多くの物を見失いかけていることに気づくことが出来る。人生において、そういった時間は大切だ。吸い込む空気に、懐かしさが混じる。もう、夏が終わるらしい。

墓園を抜け、しばらく山を登った場所に、小さな観光果樹園がある。今年の春先に、行き先もなく車を走らせていた時にたまたま見つけたその場所は、今では俺の一番のお気に入りの場所になっている。やたらと広いガラガラの駐車場に車を止め、コーヒーを飲むバイク乗りたちを横目に、薄れた観光マップを見る。果樹園、芝生広場、バーベキュー場、芋畑、ジャングルジム、展望台。この場所をこれまでに、何度か訪れたが、俺は未だに、芝生広場とジャングルジムを見たことがない。

まあいい、俺がここに来る目的は一つだ。分かれ道を、右側、展望台と書かれた看板の向く方へ向かって歩き出す。急な階段を上がり、ゆるい坂道に入ると、木々が太陽の光を遮り、体感温度が一気に下がる。階段を上って少し汗ばんだ頬を、冷たい風が心地よく撫でる。雑に舗装された山道を進みながら、俺は今年の夏のことを考えていた。

遠くに、牛の鳴く声が聞こえる。四方からは、夏の終わりを惜しむように鳴く蝉の声が響き、木々の間から差し込む木漏れ日は、まるで万華鏡のように一瞬一瞬の内に形を変えながら、俺の歩く道を照らしていた。夏が時折見せる、この幻のような景色は、俺の心に漠然とした不安を落とす。

今思うと、その不安は昔からずっと感じていたもののような気がする。真夏の昼間、虫網を手に走り回っていた頃。ふと、足を止めると、空に浮かぶ雲は流れを止め、風も止み、蝉の声だけが異様に大きく聞こえる。まるで、夏という名の無機質でどこまでも広い部屋の中に閉じ込められたような、そんな漠然とした不安。夏に飲み込まれそうになる、と言えばいいのだろうか。とにかく、恐怖とは別の不安を感じ、その度に俺は来た道を走って帰り、家の近くまで来た時にようやく、町を歩く人々や道路を走る車を見て安堵していた。振り返ると、遠くアスファルトの道に陽炎がたち、そいつはまるで、その閉じ込められた夏の空間から俺をじっと見つめているようにも見えたのだ。

そんなことを思いながら歩き続け、ようやく俺は目的の展望台へとたどり着いた。屋根もベンチも無く、展望台と呼ぶにはあまりにお粗末に思えるが、それでもここは俺の一番好きな場所だ。手すりに手をつき、景色を眺める。左手には深くどこまでも広がる緑の山々が、右手には遠くを流れる一級河川が輝き、その周りに家や道路が小さく見える。大きく息を吸い、空を見上げると、視界の全てが空の青に変わった。太陽がジリジリと俺の肌を焼く感覚が伝わる。実は夏は終わらないんじゃないか、そんな気さえしてきた。

また来たのね。

ふと、そんな声がして、俺は視界を戻す。どこまでも広がる夏の景色の中、いつの間にかそいつは、俺の横に立っていた。ああ、今日はお前に別れを言いに来た。俺が言うとそいつは小さく笑い、そう、とだけ言った。

そいつと出会ったのは、7月の中頃、初めてこの展望台まで登った時のことだ。そいつは今と同じように、いつの間にか俺の隣に居て、そして自分のことを、夏と名乗った。

 この夏、俺は何度かこの展望台を訪れ、そして彼女と他愛のない話をして時間を潰した。場所のせいか、暑さのせいか、彼女と過ごす時間はまるで、水の中で目を開いた時のような不鮮明で、幻想的で、現実とは違う不思議な時間だった。

 律儀な人ね、わざわざ別れを言いに来た人は、あなたがはじめてよ。遠くを眺めながら言う彼女の髪を、風が揺らす。夏が終われば、君はどうするんだ。俺が聞くと、彼女は笑い、返す。おかしな人ね、もう答えを言っているじゃない。私は夏よ、夏が終われば私も終わる、それだけよ、と。

冷たい秋の風が俺たちの間を通り抜け、木々を揺らす。寒いわ、と、隣で彼女が言った。

知ってるか、8月はもともと、30日までしかなかったんだ。俺は展望台の手すりに背をもたれかけ、彼女を見ながら言う。大昔、夏に恋をしたバカな男が、神に言ったんだ。彼女に別れを告げるための日を作ってくれ、とな。最初、神はふざけたことを言うなと一蹴したんだが、あまりに男が熱心に頼み込むもんで、最後は根負けして、そして1日だけ、8月をはみ出させたんだ。それが今日、8月31日さ。彼女はいつものように、大して興味もなさそうな風に俺の話を聞き、そして、素敵ね、とだけ言った。

見て、夏が終わるわ。彼女が、沈む夕日を指差し、言う。私、この瞬間が一番好きなの。今日も楽しかった、もう少し遊びたかったけれど、それはまた明日ね、って、そんな風に考えながら帰るの。

なあ、また来年もここに来れば会えるのかな。

俺の問いに、彼女は首を横に振った。夏は毎年来るけれど、今年の夏は私だけよ。そうだろうな、とは思っていた。そして、覚悟も。

もう少し。遠く、沈む夕日を見つめながら、彼女は小さくそんなことを言った。俺は、そんな彼女を、抱きしめる。

太陽が沈む。8月31日が、夏が、終わろうとしていた。

ダメよ、ここから先には私は行けない。彼女が俺の手を解き、そして手のひらで俺の胸を押す。嫌だ、と俺は言い、その手を掴む。一瞬、最後の輝きを放ち、太陽は遠く地平線の果てに消える。と、同時に、その果てから黒い波が押し寄せて来る。ああ、あれがたぶん、夏の終わりなのだろう。

離して、このままだと本当にあなたまで。抵抗する夏をもう一度抱き寄せ、俺はその唇にキスをした。その瞬間、俺の頭の中に、夏の記憶が流れ込んで来る。

太陽、空、雲、蝉の声、海、砂浜、陽炎……色々なものが頭を駆け抜け、そして最後、俺の前には驚いた顔で俺を見つめる夏の姿があった。

黒い波は、山々と、川と、町と、車と、人々と、蝉と、鳥と、全てを飲み込み、もう俺たちの足元にまで迫っている。夏は頬を赤く染め、そして、本当にバカな人、と言った。

待っていれば、来年も夏は来るのよ?

でも、今年の夏は君だけなんだろう?

黒い波は、今にも俺たちを飲み込もうとしている。世界のほとんどが、もう、闇に包まれていた。本当に、夏が終わる。俺たちは抱き合い、そしてもう一度、キスをした。

海の中から太陽を見上げた時のような、そんなぼんやりとした光の中。暖かさが俺を包む。

さっきの話には、続きがあるんだ。夏に恋をした男の話さ。そのバカな男は結局、夏と別れられず、2人で神のところに行ったんだ。そして頼んだ、夏を終わらせないでくれ、とな。神は怒り、だったら好きにしろと、2人を永遠の夏の中に閉じ込めたんだ。それが彼らにとって幸せなことなのかどうかはわからない。だが、その永遠の夏は時折、陽炎として俺たちの世界に並んで現れることがある。あの漠然とした不安は、終わらない夏に閉じ込められることに対するものなのかもしれないな。

相変わらず、話が長いわね。

彼女が言う。

いいじゃないか、時間はまだまだあるだろう、それこそ、永遠と言えるほどにさ。

俺たちは手を取り、そして、歩き出す。

終わらない、永遠の夏の中を。

 

もやもや

イライラする。

ここ数日、ずっとだ。何か心の中にもやもやとしたものがあり、そいつがずっと、俺を苛立たせる。そいつが一体何者なのか、どこから来て何のために俺の中に居るのか、その理由がわからず、そのことが余計に俺を苛立たせていた。

俺は、苛立ちや悩みや悲しみや、そういったできるだけ考えたくない感情をずっと昔に切り離して生きてきた。生きてきた、はずだった。だからいつだってへらへらと笑っていたし、落ち込むことも涙を流すこともなかったのだ。それなのに、この心の中に現れたもやもやは、一体なんなんだ。

ずっと、苛立ちを感じずに生きてきた俺は、その解消の仕方を知らない。

聞いた話によると、好きなことをすればストレス解消になるらしい。それなら得意だ。それに、そんなこと、簡単すぎる。好きなことをして、その上、この苛立ちも解消できるというのなら、まさに願ったり叶ったりである。とは思ったものの、いざ、好きなことをしろと言われても、そう簡単にはいかない。俺が心の中から好きと言えることは、そう多くはないのだ。言葉を書くこと、それから、戦うこと。あとは、バーベキューくらいしかない。

消去法で考えると、戦いとバーベキューは相手や仲間がいなければできないことなので、簡単には出来ない。となると、言葉を書くことが最も簡単に思えるが、苛立っている時に書く文章なんてものは、クソだ。読み返して更に苛立つことは目に見えている。言葉には感情が宿るのだ。たとえ、こんな世界の誰も読んでいないようなブログの、くだらない記事の中にあったとしても、だ。

また、振り出しに戻ってしまった。俺の中にいるもやもやとしたそいつは、相も変わらず、心の中をぐるぐると、時折、壁にぶつかりながら、回っている。俺は、水槽の中を泳ぐ魚を見るように、心の中のそいつを見つめる。そして気づく。そいつはただがむしゃらに暴れているだけではない。まるで、何かを振り払うような、何かから逃げるような、何かに助けを求めるような。そんな暴れ方をしているのだ。

もういい、面倒だ。

俺は大きく深呼吸をし、雨上がりの湿気を含んだ冷たい空気で心を満たす。そして、心の中に手を突っ込み、おもむろにそいつを掴み上げた。もやもやしたそいつは、俺の手から抜け出そうとバタバタと手足のような何かを振り回すが、俺はがっちりと掴んだまま離さず、そのまま洗面所へ向かい、蛇口を目一杯捻り、そいつを水の中に突っ込んだ。

 必死に暴れて逃げようとするもやもやを押さえつけ、怒りに任せ、水の中でゴシゴシとこする。流れる水がドス黒く濁る。いったい、なんなんだこいつは。嗚咽が漏れる。黒く汚れたそいつを洗いながら、俺は、泣いていた。

子どもの頃、怒り狂った親父に昆虫図鑑を投げられ、それが顔に当たりとんでもない量の血が出たことがある。その頃も、今と同じように、血まみれになったタオルを俺は泣きながら洗っていた。あの頃、俺はよく泣き、よく怒った。力いっぱいの大声で怒り、そして顔をくしゃくしゃにして泣きじゃくり、生きていたのだ。そう、あの頃の俺は、人間として、生きていた。

水の濁りは消えるどころか濃くなっていき、俺はムキになりながら、力任せにゴシゴシとこすり続ける。目からは涙が溢れ続けていた。その水の淀みが一体なんなのか、このもやもやがどうして俺の心の中に居たのか。俺はその時、ようやく気付いた。そして、気付いた頃には、そいつのもやもやはすっかり流れ落ち、流れる水は透明になっていた。

俺の手の中で、子犬のように震えるそいつは、猫のような鳥のような、蜥蜴のような、不思議な生き物だった。迷ったのか?俺が聞くと、そいつはビクッと体を震わせ、威嚇するように声を上げる。俺は蛇口の水を緩め、冷水に湯を混ぜる。暖かいお湯で身体を流してやると、そいつは目を細め、少し安心したように息を吐いた。もう大丈夫だ、何も心配いらない。俺が言うと、そいつは不思議そうに首をかしげ、俺を見つめるのだった。

こいつがどこから来たのかはわからない。だが、あのもやもやの正体はわかる。あれは、俺が消し去った気になっていた、苛立ちや悩みや悲しみ、そういった心の中の埃だ。俺がベッドの下や本棚の裏や、クローゼットの中や、引き出しの奥にしまいこみ、綺麗に片付けた気になっていた汚れだ。それを、どこからか迷い込んだこいつが、いつの間にか集めて、苦しくなって暴れていたのだ。ごめんな。俺は、ドライヤーでそいつを乾かしながら、言う。

もし、こいつがいなければ俺はどうなっていたのだろうか。これまでと同じように、苛立ちや悩みや悲しみや、そういった考えたくないものを、ベッドの下や本棚の裏にしまいこみ、忘れた気になりへらへらと人生を生きていたのだろうか。そうして積み重なった黒い心の埃たちは、ある時、一気に溢れ出して俺の心を壊していたかもしれない。すっきりとして伸びをする、そのよくわからない生き物を、俺は再び自分の心の中にしまった。そうして、今度は自分に言い聞かせるように言う。もう大丈夫、心配いらない、と。

苛立ちや悲しみといった負の感情は、人生を生きる上で欠かせないものなのかもしれない。俺は、その感情を、もう、上手く感じることが出来ない。そうすることで、上手く生きているような気になっていたのだ。しかし、そうじゃなかった。そのことに、ようやく気付いた。黒い埃に心を壊される前に、気づくことができた。

だからと言って、何かが変わったわけでもない。俺は相変わらず、苛立ちの解消の仕方がわからず、心の中の見えない場所に隠すだろう。そうすることしか、出来ないのだ。しかし、ほんの小さな変化であったとしても、心においては水面に投げた石の波紋のように、静かに、それでいて確実に広がり、やがて大きな流れとなる。

いつか、俺もあの頃と同じように、もう一度、力強く生きることが出来るだろうか。それはまだわからないが、これからは、もう少しだけ“嫌な奴”になってみることにしようと思う。