かきかたの本

書き方の練習

雑巾をしぼる

 引越しをして、部屋がフローリングになったので、掃除の際に、これまではすることのなかった部屋の床を雑巾がけするという行為が追加された。

ズレたテーブルを戻し、漫画本を本棚に並べ直し、脱ぎっぱなしの部屋着を気持ち程度に畳んで椅子の上に置く。これだけで俺の部屋の整理は終わりだ。あとは床の埃を箒で掃き、それから待ちに待った雑巾がけである。学生時代以来、約4年ぶりの雑巾がけであった。

が、当然の事ながら、新築数ヶ月で1人の男が暮らしているだけの部屋の床が学校の教室の床ほど汚れているはずもない。久しぶりの雑巾がけは、シャー芯を引きずって出来たであろう芸術的な線や、いつの間にか存在していた謎の黒ズミや、気になるあの子のものかもしれない長い髪の毛や、黒板の溝を拭いた奴が落とした虹色のチョークの粉に悩まされることもなく、あっという間に終わってしまった。あの頃に戻れると期待していただけあって、少し肩透かしを食らった気分ではあったが、掃除というこの上なく面倒な行為が早く終わるに越したことはない。俺は綺麗になった床を誇らしげに確認し、足跡をつけないようつま先歩きで部屋を出た。

ゾウのキンタマをしぼったことがあるのか。

使用した雑巾を洗いながら、俺は、そんなくだらない言葉を思い出していた。小学生の頃に流行った、くだらない揚げ足取りの遊びだ。

雑巾をしぼったことがあるか、と聞き、あると答えると、ゾウのキンタマをしぼったことがあるのかと言い、ないと答えると、雑巾をしぼったことがないなんてありえないと言う。本当にくだらない、ただ単に相手に苛立ちを与えるだけの遊びである。小学生の頃は、こういったくだらないものがよく流行った。

雑巾をしぼったことがある?

理科、ちゃんと勉強してる?

ねえ、ちゃんとお風呂入ってる?

まったく、くだらない。雑巾をしぼり、俺は思わず、ふふっと笑った。

そもそも、だ、ゾウのキンタマをしぼるなんてことを、実行した人間は存在するのだろうか。いくら温厚な性格のゾウであっても、さすがにキンタマをしぼられると怒るだろう。怒ったゾウを前に、人間は余りに非力である。たとえ、弱点であるキンタマを握っていたとしても、だ。鞠玉のようにポンと蹴飛ばされてお終いだ。そうまでして、ゾウのキンタマをしぼることに、一体なんの意味があるというのだ。得られるものと言えば、せいぜい、スリルと、“ゾウのキンタマをしぼったことがある人”という称号だけである。リスクに対してのリターンがあまりに小さすぎる。

しかし、そこまで考えが至らないのがバカな小学生である。いや、それは当然の事である。単なる言葉遊びなのだ。真面目に考える方がむしろ、バカなのだろう。得意げにこのくだらない質問を投げかける奴も、理不尽にバカにされたことにムキになって怒る奴も、どちらもバカである。そして、悲しいかな、あの頃の俺も、そんなバカな小学生の一人だった。

2005年。夏休みを利用し、一路、南アフリカへ飛んだ俺は、ケープタウンで一夜を過ごした後、カパマ私営動物保護区へ入った。目的は、もちろんアフリカゾウだ。過酷な道中で、通訳がマラリアに侵され死んだ。言葉は通じなかったが、俺の目的に共感してくれていた案内人のティンは、しっかりとその役目を果たしてくれた。

ジープに乗り、広大なサバンナを進むこと2日目。夕暮れの陽炎の中、俺たちは数頭のアフリカゾウの群れと遭遇した。逆光に黒く輝く影は、雄大で力強く、本物の命の強さを放っているように見えた。日が暮れる、決行は明日の朝にしよう。ティンが言った。幾つもの死線を越え、俺とティンは言葉は無くとも心で会話することが出来るようになっていた。 

昼間の地獄のような暑さとは打って変わり、サバンナの夜は冷え込む。俺たちは毛布に包まり、満天の星空を眺めていた。なあ、なぜお前はゾウのキンタマをしぼりたいんだ。ティンが聞く。俺は小さく笑い、意地さ、と応えた。まったく、くだらない意地で、地球の反対側まで来ちまったもんだ。決行は明日。俺は、震えていた。寒さにではない、怖かったのだ。いざ、目にした象の群れ。彼らの生命の強さを前に、俺のくだらない意地は本当に、小さすぎた。ティンが俺の背を叩く。彼もまた、小さく震えていた。

夜が明けると同時に、俺はティンの声で目を覚ます。ティンは興奮した様子で象の群れを指差していた。俺は寝ぼけ眼のまま、手渡された双眼鏡を覗き込む。そして、一気に目が覚めた。

ライオンだ。二頭のメスライオンが、アフリカゾウの子どもを襲っていたのだ。素早い動きで子ゾウに襲いかかるライオンと、子を守る為に吼える数頭の大人のゾウ。まさに、死闘であった。ティンがジープのエンジンをかける。あの興奮状態の群れに突っ込むのは危険すぎる。止めようとした俺に対し、ティンが叫んだ。チャンスは今日しかないんだ!!確かに、ジープの燃料も水も尽きかけており、滞在できるのは今日が最後だった。俺はティンを見つめ、そして、覚悟を決めて頷いた。

砂煙を上げ、走るジープ。 その先には、ライオンと死闘を繰り広げるアフリカゾウの群れ。俺たちは、群れの中で一番大きな雄ゾウへターゲットを絞り、その真後ろへジープを停めた。ゾウはライオンに気を取られている。俺は荷台から飛び降り、ゾウの股座へ飛び込んだ。

一瞬、一瞬だった。時がゆっくりと流れ、周りから音が消える。いつ死んでもおかしくない状況ではあるが、俺の心は落ち着き、ゆっくりとした鼓動を響かせる。目の前に、巨大な生命の象徴が現れる。ああ、これが本物の、ゾウのキンタマか。俺は大きく息を吸い、キンタマを両腕で抱え、そして、思いっきりしぼった。

パオーン

ゾウの叫びのような声が響き渡り、ゆっくりと流れていた時が再び動き出す。ライオンに気を取られていた雄ゾウの目がこちらを向く。その目は怒りに満ち溢れていた。俺が駆け出すと同時に、先ほどまで俺の立っていた場所に巨大な牙が突き刺さる。あと一瞬遅ければ、死んでいた。いや、次の瞬間に死んでもおかしくない。俺は死に物狂いで走り、ジープの荷台に飛び乗った。と、同時に、ティンが思い切りアクセルを踏み込んだ。

ジープの荷台に仰向けに寝転がり、空に浮かぶ雲が後ろへ流れていく様を見上げる。腕も足もちゃんと2本ずつ付いている。生きてる。俺は、生きてるぞ。自然と笑いが溢れる。運転席に座るティンも声を上げて笑っていた。起き上がり、後ろを振り向くと、はるか遠くにアフリカゾウの群れが見えた。俺は両腕を空に掲げ、そして雄叫びを上げた。広大なサバンナに、俺たちの雄叫びと笑い声が、いつまでも響き渡っていた。

数日後、帰国するとほぼ同時に新学期が始まった。休みのほとんどを南アフリカで過ごしていた俺は、夏休みの宿題をまったくやっておらず、結果、罰として居残り掃除をさせられることとなった。

雑巾をしぼったことはある?

頭の悪い級友が、ニヤニヤしながら、何十回目にもなる質問を俺に投げかける。俺は洗った雑巾を干し棚にかけながら、小さく笑って答えたんだ。

もちろんさ。

知ってるか、ゾウのキンタマってのは、あったかいんだぜ?

 

七夕の夜

七夕の夜には、ジャックダニエルを飲む。

酒は好きじゃない、特にウイスキーは。あの口に広がる、正露丸を噛み砕いたような不快感。喉が熱くなり奥から込み上げてくるものを飲み込むと、しばらくして軽い頭痛と眩暈がやってくる。気分が悪い。グラスをテーブルに置き、目を閉じる。酒は好きじゃない、特にウイスキーは。しかし俺は、ジャックダニエルを飲む。あの七夕の夜、あいつのことを思い出しながら。

その夏、俺は、日本海が一望できる小高い丘に建つ民宿に身を置いていた。漁師であり料理人である無口で頑固な親父さんと、人当たりが良くちゃきちゃきと動く奥さんの2人で切り盛りされる居酒屋兼用の民宿。その二階の一室を、俺は借りていた。2人の孫である女学生がたまに手伝いに来ており、彼女は暇を見つけると俺の部屋に入り込み、星の話を聞きたがるので、2人で朝まで星を眺めながら話したこともあった。

俺は、死に場所を探していた。仕事を辞め、なけなしの貯金を全額下ろし、二本の足でいろいろな物を見ながら歩いた。腹が減ると何かを食べ、眠りたくなると外でも眠った。自由がどんなものなのか、それを知りたくて、ただ思うがままに時間を生きた。その結果、数ヶ月で貯金はほとんど尽き、ふらふらと辿り着いたこの、世界の果てのような静かな時の流れる町で、誰にも知られずに死のうと、そんなことを考えていた。

あいつと出会ったのは、そんな8月9日の夕暮れ時。ちょうど、七夕祭りの日のことだった。

その日はいつものように昼に起き、少し本を読み、それから夕方までまた眠って過ごした。遠くに聞こえる祭囃子で目が覚め、今日が七夕祭りだったことを思い出す。そういえば、女学生にしつこく誘われていたのだった。時計を見ると時刻は18時を少し過ぎたところ。まだ少し余裕がある。煙草を吸おう。彼女の前で吸うとまた、健康に悪い、などともっともな言葉でどやされる。

部屋を出て、ベランダへ向かうと、そこで、見慣れない男と出会った。夜空のように澄んだ黒の髪に、星のような深い藍の目をした20代くらいの男。そいつは俺を見もせずに、見たこともない銘柄の煙草を吸い、橙色の空に不思議な匂いの煙を吐き出していた。

狭いベランダだ。俺はそいつの隣に並び、自分の煙草に火を付けようとする、が、そこでライターを部屋に忘れて来たことに気づく。舌打ちを一つ、咥えた煙草を口から離したとき、そいつは小さく笑って、マッチを差し出してきた。茶色地に白字でホテル“デネブ”と書かれた、なんとも古臭いマッチだったが、火がつけば問題ない。俺は何も言わず手で礼をして、マッチを受け取り、火をつけた。懐かしい音とともに、リンの焦げる匂いが一瞬広がる。煙を吸うと、不思議な味がした。

あんた、そこに部屋を借りてるんだろ。そいつは相も変わらず俺の顔を見ずに言う。ああ、お前は?俺が聞くとそいつは、あんたと同じさ、と言った。石炭袋で落っこちて、死に場所を探してふらふらと、さ。そいつは初めて俺の顔を見て、ケケッといかにも愉快そうに笑った。

隣の部屋は空き部屋だったはずだ。とすると、こいつは新しい同居人ってことか。おかしな男だが、嫌な気はしない。不思議な空気を持っていた。

今日は七夕祭りらしい、お前も行くのか。俺が言うと、あいつは町の方を見て、小さく、いや、と呟いた。そして、今夜はきっと星がよく見える。と、そんなことを言った。

こんなところにいたんですね。浴衣を着た女学生が、いかにも不快そうな顔で、煙草を吸う俺のことを見ながら言った。もう時間か。俺は慌てて煙草の火を消し、すぐ準備する、と言う。となりであいつが、手をひらひらとさせながら、ケケッと笑った。

あの人、お知り合いですか?祭囃子へ向かって歩きながら、女学生が俺に問う。意外だった。彼女は知っているものと思っていたが。たぶん、新しい同居人だと思うけど。俺が答えると、彼女は首を傾げ、そんな話、聞いてませんけど、とそんなことを言った。だったらあいつは何者なのだろうか。泥棒だったらどうしましょうか。いや、それはないだろう。どうしてです?俺の前に立ち、彼女は言った。長い髪と紺色の浴衣が揺れる。俺は一瞬足を止め、彼女の目を見つめ、それからすぐに目を逸らし、再び歩き出しながら答える。あいつは、石炭袋で落っこちたらしい、と。

祭りは、とても良かった。人も、飾りも、出店も、全てが淡い光に包まれ、まるで夢の中を歩いているような、そんな気分になる。思えば、祭りに来たのは随分と久しぶりのことだった。子どもの頃は、その特別な行事が大好きだった。夢のような不思議な空気の中、俺の手を握る親父の大きな手。人々の話し声、足音、祭囃子。砂で汚れたスニーカー、食べきれなかったりんご飴。そんなことを考えていると女学生が不意に俺の手を取った。驚いた顔をしていたのだろう、女学生は楽しそうに笑い、そうして俺の手を引いて駆け出した。人々の声が、光の泡のように生まれては後ろへ流れて行く。ぼんやりとした景色の中で、前を行く彼女の紺色の浴衣だけがはっきりと見えていた。

帰り道。すっかり日の暮れた海沿いの道を、俺たちは仮の故郷へ向かって歩く。潮の匂い、雪駄の足音、涼しい夜風。懐かしい空気は、遠く離れた見知らぬ町でも変わらず、俺の鼻の奥を突く。世界の終わりは、きっとこんな穏やかな日に、訪れるのだろう、そんなことを考える。緩やかなまどろみの中での眠りのように、重く、心地よく、ゆっくりと、夕日とともに沈むように。

寂しいな、と、前を歩く彼女が言った。楽しいけど、寂しい。その気持ちは、よくわかる。祭りの帰り道というものは、そういうものだ。淡い光の中から出てしまうと、そこはもう、現実と孤独の世界だ。夢は覚める。楽しい時間には必ず終わりがある。

一階の居酒屋は、大盛況だった。俺は邪魔をしないように裏の階段から二階へ上がり、部屋へ戻ろうとして、ベランダに人影があることに気づく。あいつは、夕方と同じように、空を見上げて煙を吐いていた。

 星はどうだ?隣に並び、俺が言うと、あいつは何も言わずに夜空を指差した。本当に、綺麗な星空だった。雲一つない澄んだ夜空に輝く星々と、その間を流れる天の川がはっきりと見えていた。俺たちは何も言わず、ただぼうっと、煙を吐き出しながら、その美しい星空を2人、見上げていた。

あんた、どうして死に場所を探してんだ。不意に、あいつが言った。その手には、いつの間にかウイスキージャックダニエルの瓶とグラスが握られている。どうしてわかるんだ?俺が聞くと、あいつはまたケケッと笑い、ウイスキーの蓋を開けながら、ここにいるってことはそういうことだろう?と、言った。

七夕の夜にはジャックダニエルを飲むんだ。グラス半分に注いだぬるいウイスキーを一気に飲み干し、あいつは顔をしかめながらそんなことを言った。星の川のほとりで、遠くの岸を見ながらさ。

なんでジャックダニエルなんだ?

彼女が、好きだったんだよ。だからさ。きっと彼女も向こう岸で飲んでるはずさ。

恋人か?

大切な人さ。今は、会えないけどな。そう言ってあいつは、遠くの誰かに向けるように、グラスを空へ掲げた。

なあ、知ってるか。星ってのは、少しずつ動き続けてるんだ。だから、生きていればいつかきっと会える。途方もない時間がかかるかもしれないが、きっと、また、必ず、この宇宙のどこかで。

あいつは再びグラスにウイスキーを注ぎ、今度はそれを俺に渡した。

あんたが何を思って死に場を探してるかは知らねえが、どうだ、考えてみろよ、あんたは今、どこにいる?ここはどこだ?あんたは誰だ?

ここがどこで、俺が誰なのか。あいつの深い藍の瞳に、心を見透かされているような気がする。俺はグラスのジャックダニエルを一気に飲み干す。ぬるい苦味が口に広がり、喉が一気に熱くなる。

ここは、どこでもないし、俺は誰でもない。

そう、あんたは死んだんだ、この町で、さ。ケケッと笑い、あいつはボトルのままウイスキーを一口飲んだ。

今夜はうまい酒が飲めた。あんたのお陰だ。

時刻はもうすぐ0時を迎えようとしていた。遠くの祭囃子もすっかり聞こえなくなり、波の音と俺たちの話し声だけが星の輝く夜空へ吸い込まれていく。

なあ、お前、名前は?俺が聞くと、あいつは俺に背を向け、ドアを開き、名乗る必要はないさ、と言った。それより、お待ちかねだぜ?同じようにまたケケッと笑い、あいつは空き部屋ではなく裏の階段へと向かって行った。あいつを追おうとベランダを出た俺は、扉の前で居心地悪そうに立つ女学生の姿を見つけ、足を止めた。浴衣から、シャツとジーンズ姿に着替えた彼女は、今にも泣き出しそうな顔で俺を見ていた。

今夜は星がよく見える。俺が言うと、彼女は恐る恐るベランダへ出て、夜空を見上げる。天の川を挟んで見える織姫と彦星の輝きが、少し近づいているように見える。

 どこかへ、行っちゃうんですか。彼女が震える声で言う。俺は何も言わず、煙草に火を付ける。彼女はわざとらしく咳をし、健康に悪いですよ、と言った。

なに、生きていればまた会えるさ。夜空の星だって、少しずつ動いてるらしいからな。

ちゃんと、生きてくれますか?

ああ、生きるさ。俺が答えると、彼女は俺の胸に顔を埋めるようにして、その小さな体で俺のことを抱きしめた。そして、小さく、約束ですよ、とそう言った。

俺は彼女の背中に腕を回し、ああ、約束だ。と、そう答えた。

 

それから何年もの月日が流れ、今、俺は新たな地で働きながらなんとか生きている。そう、ちゃんと、生きている。あれ以来、あの民宿には一度も行っていない。当然、彼女と会うこともない。

しかし、いまだに俺は七夕の夜にはジャックダニエルを飲み、そしてあの夜の夢のような時間を思い出すのだ。

夜空に輝く織姫と彦星は、あの時よりも更に近づいているように見える。俺は空へグラスを掲げ、ぬるいジャックダニエルを一気に飲み干した。

俺と彼女はいずれ、どこかでまた出会うだろう。たとえこの広い宇宙の中で離れ離れだったとしても、生きていれば、いつか必ず、どこかで。

サザンクロスは冬の星座だ。

もう少しだけ、この世界で生きていこう。

髭が伸びる

ここ最近、髭の伸びる速度がどんどん早くなっている気がする。

昼休み、トイレの鏡で顔を見ると、朝剃ったはずの髭が、もう朝と同じほどの長さにまでなっていた。帰る頃には、朝の倍ほどの長さにまで成長している。剃ると倍の長さになる髭。映画“グレムリン”にも似た、なんとも恐ろしい話だ。

朝、剃る前は1mmだった髭が、夜には2mmになっている。たった1mmと思われるかもしれないが、1日で倍の長さに成長しているのだ。このペースで髭が伸び続けるとすれば、どうだろうか。1ヶ月後には俺の髭は536,870,912mmになっているという計算になる。キロメートルに直すと、536km。1ヶ月後、俺の髭は韓国に到達してしまうほどの長さになる。

まったく、困ったものだ。ただでさえ毎日髭を剃ることが面倒で仕方がないというのに。536kmの長さにまで成長してしまった髭を剃ることが、どれだけ大変だろうか。それほどの長さなら電動ヒゲソリは使えない。シェービングクリームだってとんでもない量が必要になるだろうし、それに、排水溝だって詰まってしまうじゃないか。勘弁してくれ。

いや、待てよ。そうか、何も、わざわざ無理をして剃る必要はないんだ。そもそも、536kmもあるものはもはや髭とは呼べないだろう。それは単なる迷惑な毛、だ。毛なら、切ってしまえばいい。根元から裁ちバサミでザックリと。そしたら全長が何kmあろうと関係ない。

そしたら、その切った髭でセーターを編もう

それに、暖かい布団と絨毯もだ

世界中の子どもたちが寒くならないように

それが俺の夢

今度は君の夢を聞かせてくれよ、な

ため息をつく

ため息をつくと、幸せが逃げる。

どこの誰が言い出したことなのかはわからないが、この話を聞いたことがある人は少なくないだろう。きっとどこかの誰かが、ため息をついた誰かを見て、そんなことを言ったのだろう。自分が言われると、次は誰かに言ってみたくなる。この言葉に、そんな不思議な魅力があるのは事実で、実際に俺も何度も口にしたことがある。そういった言葉は、この世界に幾つか存在し、彼らは生まれたその日からずっと、口から口へとふわふわと世界を飛び回る。生み出した当人は、自分が何気なく呟いた適当な言葉が、世界中の多くの人間が知っている言い伝えのようなものになるなんて、夢にも思わなかっただろう。

似たような話で、夜に口笛を吹くと蛇が出るというものがある。俺は子どもの頃に親に言われたこの言葉を信じ、蛇を呼び出すために夜に口笛を吹き続けた。おそらく、夜に口笛を吹くとうるさくて迷惑になるので、怖いものが出るという嘘で子どもに口笛を吹くことを止めさせる、そのためのものなのだろうが、いかんせん、あの頃の俺はアホだった。その結果、蛇こそ現れなかったが、口笛はそこそこ上手くなり、当然のごとく俺はアホのまま大人になった。

さて、ため息をつくと幸せが逃げるらしいが、逃げた幸せは、いったいどこに行くのだろうか。俺の頭はプラスチックで出来ており、その中身は空洞になっているので、俺が私生活の中でため息をつくことはまずない。故に、なかなか実証する機会がなかったのだが、ここ最近、引越し準備に追われ好きなことができておらず、少しだけ疲れていたのかもしれない。ふとした拍子に、そいつは俺の前に現れた。

漫画本とアルバムと写真を入れたダンボールの蓋をガムテープで閉じ、スペースの半分がダンボール箱で埋められた部屋を見る。まだ、やるべきことの半分も終わっていない。途方もない作業の多さに、俺は深くため息をついた。ポカリを飲もう。そう思い部屋の出口を見ると、そこにあいつは居た。何だお前は。俺が言うと、私はあなたの幸せ、と、あいつは応えた。

とりあえず俺は、キッチンへ向かい、冷蔵庫からポカリのボトルを取り、再び部屋へ向かう。あいつは、俺がさっき閉じたばかりのダンボール箱を開け、そこからアルバムを取り出し眺めていた。俺はあいつの手からアルバムを奪い、箱に詰め、再び封をする。お前が俺の幸せなら、俺はもう、幸せになれないってことなのか。新しいダンボールを組み立てながら、聞く。知らないわ、私はあなたの幸せだけれど、今はもうあなたから切り離されてしまったもの。そう言って、あいつは俺のポカリを一口飲んだ。

それから俺は、少しずつ、引越しの準備を進めていった。その間、あいつはずっと部屋の角のダンボールの上に座り、アルバムのページをペラペラとめくり、時折、ふふっと小さく笑ったりしていた。何度箱に戻しても、すぐに箱を開けて取り出すので、俺はもう、アルバムの箱詰めは後回しにし、他の物を優先的に片付けていった。そんなものを見て楽しいのか、と聞くと、楽しいわ、私はあなただものと応える。よくわからないが、どうやらあいつは俺らしい。部屋によくわからないものがいるにも関わらず、俺は不思議と気にならなかった。それどころか、あいつが部屋の片隅にいることで、どこか懐かしい安心感のようなものさえ感じた。

ようやく作業がひと段落ついた頃、窓から見える空は橙色に染まっていた。俺はあいつの隣に座り、ぬるくなったポカリを飲み干した。ため息をつくと幸せが逃げるらしいが、お前は逃げないのか?俺が聞くと、あいつは小さく頷き、アルバムを見たまま、逃げたくなんてないわ、と言った。でも、切り離されてしまったから、もう戻ることは出来ないの。そう言ってアルバムを閉じ、立ち上がる。途端に、俺の胸に寂しさが込み上げてくる。

だったら、だったらお前はどうなるんだ。

どうにもならないわ。ただ、世界を漂うだけの存在になるの。私はあなたの幸せであって、それ以外の何者でもないもの。

一度切り離されてしまった俺の幸せは、もう二度と戻ることは出来ない。俺はこれまで、何でもない幸せな日々が当たり前だと思っていた。目に見えないものだから。こんな風に、別れる日が来るなんて思ってもなかったから。

行かないでくれ。別に俺の中に戻らなくたっていい。ただ、そばにいて、思い出させてくれるだけでいい。

みっともないなと、自分でも思う。それでも俺はあいつにすがった。しかし、同時にわかってもいた。それがどうしようもないことであること。何もかもが遅すぎたのだ。あいつは情けなくすがりつく俺を優しく抱き寄せ、耳元で小さく呟いた。私は幸せだったわ、と。

それまで俺の中にあったあいつは、今は俺の目の前にいる。こんなにも近くにいるのに、どうしようもなく遠い。それは、過去や思い出や、そういった物とよく似ていた。

私の役目は終わったから、私がいると、あなたは新しい幸せを見つけることが出来ないの。

窓から差し込む橙色の光が、俺たちを照らす。ありがとう、と、俺が言うと、あいつは俺の背中を撫でながら、可笑しそうに笑う。私はあなたなのに、それはおかしいわ、と。

また、会えるだろうか。わかりきった問いを投げかける。あいつは小さく首を横に振り、最後に話が出来てよかった、と言った。

夕焼けの街を歩く。この街並みも、子どもの頃に比べると随分と変わった。遊び場にしていた雑木林と畑は、今や住宅地になり、砂利道は舗装された道路に、秘密基地を作ったスクラップ場は大型ゲームセンターになった。それでも、不思議と、空気と風は昔のままだ。

そうして、俺は考える。すれ違う人、それぞれに人生があり、彼らもどこかで古い幸せを切り離し、新しい幸せとともに歩いているのだと。切り離された幸せたちは、形を成すことも、集まることもせず、ただこの世界のどこかを漂っている。

夕焼けの街。畑の向こうに見える雑木林。砂利道を歩くあいつの横を、自転車に乗ったあの日の俺が通り抜けて行く。そんな光景が浮かび、俺は立ち止まる。夕陽が沈む。空は深青に変わりつつあった。

ため息をつくと幸せが逃げる。逃げた幸せは、もう二度と、戻ってはこない。しかし、消えてしまったわけではない。あの楽しかった日々の記憶を抱き続け、時折、ふふっと笑ったりしながら、一人、この世界のどこかを漂っている。

 

物と生きる

来週の引越しに向けて、物の整理をしている。

今の家に移ってから、約15年。俺自身が、物を中々捨てられない性格ということもあり、膨大な数の物が部屋とクローゼットに溢れている。その一部だけを新居へ移すダンボールへ入れ、残りの大半は捨てることにした。

その多くは、俺にとって既に何の価値も持たない物である。ただ、同時にそれは、この15年間の俺の生きた証でもあったのだ。昔集めていたトレーディングカード、プラモデルの箱、2011年の4ヶ月だけ買っていた雑誌、英語で書かれた何かの説明書、バファローズの応援ユニフォーム、思いついた物語を乱雑に書き連ねたノート。その瞬間に、俺が生きていた証。その一つ一つをゴミ袋に入れながら、俺は思う。これまで俺の代わりに過去を背負い続けてきた彼らがこの世からいなくなると、俺の過去も同じように、無くなってしまうのではないかと。

俺は昔から、新しいことを始めることが苦手だった。というよりは、それまで続けていたことから離れることが苦手だった。引越しや卒業や、部活の引退や、異動や、見続けていた番組の最終回もそうだ。そんな風に、これまで当たり前にあった日常が、ある日を境に当たり前でなくなることが、どうしようもなく苦手だった。

周りの人たちは、仕方がないからと言って、当然のように新たな場所へ進んでいく。それが不思議で仕方がなかった。ただ、次のステージに進むだけの話ではあるが、しかし、俺にとっては、そんな単純なものではなかったのだ。子どものように泣きじゃくり、地面に転がり、全力で手足を振りながら駄々をこねたかったが、それでも、流れる時に取り残されるのが怖くて、結局は受け入れる道を選んできた。そんな時、心の拠り所にしていたのは、その過去の証として残っていた“物”たちであった。

人は、前へ進み続けるものである。人だけではない。この時の中に存在するものたちは、全てが例に漏れず、時の流れの中を常に移り変わり変化し続ける。そんな世界で生きる以上、どこかで見切りを付けて過去と決別をしなければ、背負った過去の重さで前に進めなくなってしまう。

俺は、物を捨てる。15年間という時と共に増えた、数え切れない物。これまで、俺の代わりに、クローゼットの奥でひっそりと俺の過去を背負い続けてくれた物たち。その一つ一つに、感謝と謝罪と決別を心の中で告げながら。

これまで彼らが背負い続けてくれたものは、本来、俺自身が背負うべきものなのだ。俺は彼らの意思を胸に抱き、新天地へと歩みを進める。これからの人生の中で、大切に抱いた過去の欠片が腕の中からこぼれ落ちてしまうことは、きっとある。しかし、それでいいのだ。

生きた証は俺自身の中にある。本当に大切なことは、心に刻まれている。それはたとえ俺が忘れてしまったとしても、俺という人間の生き方や存在の中にきっと在り続けるだろう。

マーブルチョコを買う

ここ最近、毎日マーブルチョコを買っている。会社の食堂で昼食を食べ終え、事務所へ帰る前にコンビニでマーブルチョコを買う。それが俺の最近の日課のようになっていた。

規則的な生活というのが嫌いなので、日課、なんて気色の悪いものは極力避けたいのだが、しかし、それでもマーブルチョコは毎日買わなければならないのだ。買わなければならない理由はない。それに、俺はそこまでのマーブルジャンキーではない。しかし、マーブルチョコを買わなければならない。始まりは、どこかにあったのだと思うけれど、今となっては思い出せず、ただ、マーブルチョコを買わなければならないという使命感だけが、空き缶のように、あるいはプルタブのように、俺の中に残っていた。俺は意味もわからず、ただ真面目に、その使命を全うしていた。

 会社のデスク、カバン、そして手元。三ヶ所に、いつも食べかけのマーブルチョコがあることに、ふと気がつく。どこかの一ヶ所のマーブルチョコが無くなると、新しいマーブルチョコが補充され、そしてまた別のマーブルチョコが無くなり、補充される。いつの間にかそこに、マーブルチョコの循環が生まれていた。ただ、マーブルチョコを買う。そして、食べる。買う、食べる、買う、食べる……。俺はマーブルチョコという名の世界を回す。そこには7色の生命が生まれ、崩壊し、また新たな生命が生まれる。地球ももしかしたら、そんなものなのかもしれないな。そう思いながら、口の中に入った水色のマーブルを噛む。一つの世界が終わり、優しい甘さが口に広がる。

そんな風に、この数ヶ月繰り返されてきた循環に、異変が起こりつつあった。それに気づいたのが、数日前のことだ。

16時。データ入力を終え、一息ついてデスクの引き出しの中のマーブルチョコに手を伸ばす。その時、引き出しの中にマーブルチョコが二本あることに気がついた。しかし、交代時期がずれる事はよくあることだ。特に気にせず、マーブルチョコを3粒ほど食べ仕事に戻る。翌日、いつものようにマーブルチョコを買い、そしてデスクの引き出しに入れる。違和感。見ると、マーブルチョコが三本並んでいる。おかしい。カバンを開くと、中には二本のマーブルチョコ。何かがおかしい、どうなっているんだ。

手元にあるマーブルチョコを全て並べると、合計で6本あった。それは、マーブルチョコの生まれる速度が崩壊に追いついたことを意味していた。要するに、俺の食べる速度が遅くなったことにより、供給が需要を上回り、マーブルチョコの飽和状態が生まれていたのだ。

そうして、マーブルチョコは数を増やし続けた。俺は、飽きていたのだ。マーブルチョコを食べることに。その甘ったるさに。しかし、その遅くなった消費速度とは裏腹に、マーブルチョコは増え続ける。いつしか、マーブルチョコを食べることではなく、買うことが目的となっていた。食べたいから買うのではなく、他にすることがないのでとりあえずマーブルチョコを買う。マーブルチョコを買うという行為を止めた後に生まれる空白を埋める術を知らないのだ。そうして、その繰り返しの中で、マーブルチョコを買わなければならない状況が作り出されていた。

人生も、同じだ。退屈な毎日、ゴールも目的も無く、ただ時間だけを消費していく日々。なぜ生きるのか。その問いに自信を持って答えられる人間は、きっと多くはいないだろう。意味はないが、ただ、他にすることもないので、とりあえず生きる。空白の時間を何かで埋めながら、消費していく。それだけだ。

俺は今日も、マーブルチョコを買う。デスクの引き出しの中には、数えられないほどの封の切られていないマーブルチョコが転がっている。その中に、新たなマーブルチョコを入れ、俺は引き出しを閉じた。

もう長いこと、マーブルチョコは食べていない。あのマーブルチョコの封が切られる日は来ないだろう。しかし、きっと俺は明日も、マーブルチョコを買う。明後日も、明々後日も、その先もずっと。そうして、循環の止まった世界の中で、ただ7色の生命だけがひたすらに生み出され続ける。彼らは本来の存在の意味を忘れ、ただ、他にすることもないので、仕方なく生きるだろう。

何も考えず、陳列棚に並んだ他のお菓子には目もくれず、いつものようにマーブルチョコを手に取り、レジへ向かう。この退屈な日々に終わりは来るのだろうか。

俺は考える。この、暗いデスクの引き出しの中で。

いつか、封の切られる日を待ちながら。

 

バス停の光と陰

その時、俺は確かに、陰の中に立っていた。

その日は珍しく通勤バスが遅れており、俺は駅のロータリーでバスを待つ列に並んでいた。7月の最初の月曜日。梅雨の中休みの快晴が、押し付けがましく俺たちに夏を知らせる。月曜日ということもあり、バスを待つ人々は皆、死者の列のように一様に、虚ろな顔で下を向いていた。朝の日差しというものは、人を憂鬱な気分にさせる。ただでさえ陰鬱とした気分が、より重くなる。

ため息を一つ、空を見上げる。雲一つない快晴。このままバスが来なければいいのに。そんなことを考えてみるが、しかし、バスが来なければ結局、俺は歩いて会社へ向かうだろう。たとえバスが来なくとも、天変地異が起ころうとも、世界が滅びようとも、行くべき会社が無くなろうとも、 俺はきっと会社へ向かうだろう。それしか生きる方法を知らないのだ。そこしか向かう場所が、ないのだ。

彼らも同じだろうか、前後に並ぶ人々を見たとき、ふと、あることに気づいた。全員が、太陽の光を避けるために陰の部分に並んでいるのだ。当然と言えば当然のことかもしれない。この暑い中、わざわざ炎天下の日差しの下に立つ意味はないだろう。しかし、俺はその光景に恐怖を覚えた。その光景が当たり前であることに、恐怖を覚えたのだ。虚ろな表情で、陰に列を成す生きる屍たち。いや、彼らは生きてすらいないのかもしれない。ただ日々を繰り返すだけの存在と成り果てている彼らにとって、生命の象徴である太陽の光は、身体を焦がす天敵なのだ。

遅れてきたバスがようやく到着した。屍たちはゆっくりと、順番にバスに乗り込んでいく。バスの扉は巨大な焼却炉の入口になっており、屍たちは虚ろな表情のまま炎の中へと落ちて行く。声も上げず、抵抗もせずに。俺は一歩も動くことが出来ず、その光景をただ見つめていた。死者の列を全て飲み込み、バスは俺を置いて走り出す。その先に何があるのか、俺は知っている。

遠くに、チャイムの音が聞こえた。この駅からは、かつて俺が日々を過ごしていた母校が見える。呆然と立ち尽くす俺の前を、制服を着た学生たちが話しながら歩いて行く。光の中を歩く彼らは、かつての俺たちの姿だった。学校という狭い世界の中での、退屈でくだらない日々。しかしそこでの生活は、生命の輝きに満ち溢れていた。ああ、もう一度、あの日に……。

ふらふらと、俺は陰の外へ、光の中へ歩みを進める。途端、全身を猛烈な痛みが襲った。手を見ると、太陽の光を受けた部分が煙を上げて焼け爛れて行く様子が見えた。いつの間にか俺自身も、先ほどの死者の列の住人と同じ、生きる屍となっていたのだ。俺は恐怖に怯え、叫び声を上げながら駆け出した。太陽の光は俺の全身を容赦なく焼き尽くし、焦げた手足は乾いた虫の死骸のようにバリバリと音を立てながら崩れ落ちる。両足が千切れ、地面に転がった俺の前を、学生たちが楽しげに会話をしながら歩いて行く。頭だけになった俺は、懐かしい母校を見つめ、黒い涙を流しながら、ゆっくりと太陽に焼かれて朽ちて行った。

 

気づくと、俺はバスの前から二番目の窓側、いつもの席に座っていた。エアコンの効きすぎた車内、隣には小太りの中年が座り、ハンカチで汗を拭いている。ああ、いつもと同じ光景だ。少し安心し、同時に酷く憂鬱な気持ちになる。このバスは会社へ向かう。俺はバスを降りるといつもと同じようにロッカーへ向かい、制服に着替え、そしてデスクに座り仕事を始めるだろう。変わらない日々、変わらない人生。それを変えたいと思いながらも、俺は、彼らと同じように、バスに乗る。やはり、それしか生きる方法を知らないのだ。

どれだけ戻りたいと願っても、過去に戻ることは出来ない。それはわかっているが、しかしそれでも、人は過去を思い、懐古と後悔に黒い涙を流すだろう。思えば、過去というものは、太陽の光に似ている。その輝きが大きければ大きいほど、今を生きる屍たちの心を焦がすのだ。そうして心を焼かれた人々は、屍となり、それでも生き続ける。決して辿り着くことの出来ない、過去の輝きへ向かって、陰の道を歩き続ける。

バスが会社に到着し、屍たちは再び列を成し、バスを降りていく。その最後尾に並び、俺もバスを降りた。ただ日々を生きるだけの存在であることに疑問を抱きながら、それでも俺は陰の道を進むことを受け入れた。それしか生きる方法を知らないのだから。