かきかたの本

書き方の練習

ラブ!いもうと倶楽部 vol.01

こんにちは

今週は、兄多忙のため、妹である私が代わりに記事を書くこととなりました。拙い文章とはなりますが、しばしお付き合いをお願いします。

なんちゃって

本当は、どうしてもこのブログに記事を書いてみたくて、何度も頼み込んで書かせてもらうことになったのです。まあ、兄が最近多忙というのも、事実ではあるんですけれど。最近は、仕事が終わっていなくても定時退社し、帰ってきてからずっとモンスターストライクをしています。とても忙しそうです。

そんな状況でも、兄は私にブログを書かせることを頑なに拒んでいましたが、私が処女を差し出すと言うとあっさりオーケーをしてくれました。この記事は、乙女の純潔と引き換えに書かれています。優しく読んでね。

さてさて、私の兄はいつも自分自身で口にしているように、気持ちの悪いほどの妄妹家なのですが、何故か本当の妹である私の存在を認めていないのです。それ故に、ブログやツイッターはおろか、親しい友人にも私の存在をひた隠しにしているのですが、そうなってくると不思議なもので、私自身、自分が本当に存在しているのかわからなくなってくるのです。

我思う、故に我あり

私たち兄妹のかつての友である哲学者“デカルト”の言葉です。彼は、ストックホルムで風邪を引いて死んじゃいましたけど、彼の言葉は今も多くの人の中で生き続けています。

この言葉の解釈は人によって様々です。まあ、哲学なんてものは、そういうものなのですが。生前、デカルトは、自分が存在しているかどうかを考えている時点で、それを考えている自分は存在しているだろ。と、言っていました。私たちは彼のことを陰で“屁理屈クソ眉毛”と呼んでいたのですが、言っていることは確かに、もっともな気もします。

しかし、妹である私の存在となると話は別だと思うのです。何故なら、妹というものは、兄という存在があって初めて存在するものだから、です。つまり、私が自分のことを妹だと思っていたとして。それを思う“私”という人間は存在しているのですが、“妹”である私が存在するためには、私を妹と認める兄の存在が必要となるのです。

たとえ私が、私の中で、私を妹と認めてくれる兄の存在を認知していたとしても、それは私を妹と認めてくれる兄の存在を認知している私の存在の証明でしかなく、妹である私の存在を証明してくれるのは、兄しかいないのです。

そんなわけで、私は兄に認めてもらうために必死なのですが、実際のところそんじょそこらの妹よりもよっぽど妹らしいと思うのです。妹力、かなり高めなのだと思うのです。たとえば私は家事全般をこなせますし、麗しの女子高生ですし、髪型も“ゆるふわ系”ですし。それに処女です。そう、処女なのです。

妹たるもの、処女であれ

この言葉も、私たち兄妹のかつての友である哲学者“デカルト”の残した言葉なのですが、これは別にどうでもいいです。彼は、哲学者として多くの言葉や著書を残しましたが、その数千倍ほど、こういったくだらない言葉も残しているのです。ぶっちゃけて言うと、彼はアホで、ただ頭が少しイッちゃってただけなんです。それを知っている者は、今となっては私たち兄妹だけとなってしまいましたが。

妹たるもの、処女であれ。厄介なことに、その思考は兄にも伝染し、私は妹であるため乙女の純潔を守り続けるという業を背負うこととなってしまいましたが。それでもいいのです。妹の純潔というものは、兄に捧げるためのものなのです。

処女でなくなった時、私は妹ではなくなります。“妹”の肩書きを失った私はただの女となり、それにより、私と兄はただの男と女となるのです。それってきっと、素敵なことだと思いませんか。

 文章を書くというのは思っていたよりも難しいものですね。人に読んでもらうことを前提に書くとなると、なおのことです。しかし、楽しいものですね。書き始めてから2時間も経ってしまいました。次に私がこのブログで記事を書くためには、私はもう一度、処女を捧げなければならないのですが、それはきっと、来世の話になるんでしょうね。

さて、楽しい時間というものはあっという間に過ぎると相場は決まっています。そろそろ、お別れの時間ですね。最後の言葉は、この記事を書く前から考えていたんです。

兄想う、故に妹あり

お慕い申しております、お兄様

なんちゃって